「松方正義」(まつかたまさよし)は明治時代を代表する官僚・政治家であり、第4代・第6代の内閣総理大臣を務めた功労者です。13歳の頃に両親を亡くし貧窮に苦しみますが、明治維新後、日田県(ひたけん:現在の大分県西部)知事を務め、大蔵大輔(おおくらたいふ:大蔵省次官、副大臣に相当)を経て、1880年(明治13年)には内務卿(ないむきょう:内務大臣に相当)に就任。その後、「日本銀行」(にほんぎんこう:金融システムの中核となる機関)を創立させ、「松方財政」とも称される功績を残しています。その他にも、「金本位制度」(きんほんいせいど:一国の貨幣価値を、正貨として定めた金に裏付けられた形で金額を示すこと)の実現、「台湾銀行法」(たいわんぎんこうほう)の公布など、現代の資本主義社会に続く発展に大きく寄与した人物です。明治時代の日本を支えた松方正義の生き様と今に残る逸話を紹介しましょう。
松方正義は、1835年(天保6年)、薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)に誕生。薩摩藩士「松方正恭」(まつかたまさやす)を父に持ち、四男として育てられましたが、13歳で両親を亡くします。貧窮に苦しんだものの、1847年(弘化4年)に薩摩藩校「造士館」(ぞうしかん)へ入学します。
1850年(嘉永3年)、16歳を迎えた松方正義は勘定所(かんじょうしょ:江戸幕府の役所)へ出仕し、大番頭(おおばんがしら:所長)の座書役(ざしょやく:書記)に任命。勘定所にて7年間勤め上げ、その功労を認められたことで褒賞として金130両を賜りますが、これをすべて亡き父の負債の返済に充てました。
その後、公武合体運動(こうぶがったいうんどう:朝廷の威を借りて江戸幕府の再編強化を目論んだ活動)を推進した「島津久光」(しまづひさみつ:11代薩摩藩主・島津斉彬[しまづなりあきら]の異母弟)の側近を務め、薩摩藩とイギリスとの間で起こった「薩英戦争」(さつえいせんそう)のきっかけとなった「生麦事件」(なまむぎじけん:薩摩藩の行列を遮った英国人の殺傷事件)、「寺田屋騒動」(てらだやそうどう:島津久光の命による薩摩藩内の粛清事件)などにかかわり、島津久光への忠義を示しました。
1868年(明治元年)に明治政府が起こると、松方正義は日田県知事に就任。日田県内を視察してまわり、湾に面した別府(べっぷ:現在の大分県別府市)を見た際に、海上交通を整備させれば別府が発展するのではと考え、別府港を造ります。
また、日田県で大量の太政官札(だじょうかんさつ:政府の最高機関・太政官[だじょうかん]が発行した当時の紙幣)の偽札が流通していると耳にし、これが旧福岡藩(ふくおかはん:現在の福岡県福岡市)士族(しぞく:旧武士層)の仕業によるものだと明らかにすることで、「大久保利通」(おおくぼとしみち)から高い評価を得ます。
その後、大久保利通の推薦により、民部大丞(みんぶたいじょう:民政事務を管轄する明治初期の官庁の官職)の租税権頭(そぜいごんのかみ:現在の主税局長)に就任。ここから、資本主義の父と呼ばれた、松方正義が頭角を現し始めます。
1873年(明治6年)頃より、地租(ちそ:土地を対象とした課税)を一元管理するために、事務局の開設へ奔走。翌年1874年(明治7年)2月、「地租改正事務局設置ニ関スル建議」を提出し、内務省と大蔵省にまたがって管理されていた事務局が一本化される運びとなります。さらに翌年1875年(明治8年)には、地租改正事務局の最高責任者に任命され、地租改正事業を完成させました。
その後、1878年(明治11年)に、松方正義は「パリ万国博覧会」における日本側の副総裁(事務方の副代表)として、フランスへ渡欧。現地でフランス大蔵大臣であり、経済学者「ジャン=バティスト・セイ」の孫である「レオン・セイ」に出会い、日本も通貨の基準を金としたほうが良い、金本位制度を取り入れるべきだと助言されて日本財政の見直しを決意します。
帰国後の1880年(明治13年)、松方正義は内務卿に就任し、翌1881年(明治14年)には「日本帝国中央銀行の設立」を記した政策案を提出します。
同年、参議(さんぎ:明治政府の重職)「大隈重信」(おおくましげのぶ)が、「明治十四年の政変」(めいじじゅうよねんのせいへん:明治政府所有の土地等を民間へ安値で払い下げた事件をきっかけとする政治騒動)により、明治政府の中枢から追放されたことで、松方正義は参議と大蔵卿を兼務することとなりました。就任後、日本初の中央銀行として日本銀行を創設し、財政の改革に尽力します。
松方正義は、日本銀行を設置したことで金本位制の実現が可能だと踏み、明治政府発行の紙幣をすべて廃して「兌換紙幣」(だかんしへい:正貨とされた金への引き換えが保証されている紙幣)へ置き換えるといった紙幣整理や、あらゆる増税、明治政府予算の圧縮などの政策を実施し、財政収支の健全化に取り組みます。これにより、インフレーション(一定期間、経済の価格水準が全般的に上昇すること)を抑え込むことに成功したものの、こうした緊縮財政は深刻なデフレーション(物価が持続的に下落していくこと)を招くこととなり、のちに「松方デフレ」と呼ばれ、世間の反感を買うこととなったのです。
1885年(明治18年)に内閣制度が整備されると、第1次「伊藤博文」(いとうひろぶみ)内閣で初代大蔵大臣に任命。以後、10年以上もの間、大蔵大臣として内閣に携わりました。
のちに2期も内閣総理大臣を努めますが、どちらも2年に満たない期間で辞任。この背景には、大隈重信率いる「進歩党」(しんぽとう:国会開設を目指した自由民権運動派の政党)との連携の不和があったと言います。
内閣を辞したあとは、元老(げんろう:天皇の補佐として国家の重要事項に決定権を持つ重臣)として1902年(明治35年)の「日英同盟」(にちえいどうめい:ロシア帝国に対抗して日本とイギリスが結んだ同盟)締結に協力し、その後も枢密顧問官(すうみつこもんかん:憲法を審議する枢密院[すうみついん]の長官)・内務大臣・日本赤十字社社長を歴任。1924年(大正13年)7月2日に享年90歳で没し、東京都の自邸で国葬が執り行われました。
松方正義の大蔵大臣時代には松方デフレ、松方財政と呼ばれる特徴的な財政が行われています。このとき、明治政府は「西南戦争」(せいなんせんそう)の頃より「富国強兵」(ふこくきょうへい:経済を発展させて軍事力の増強を図る政策)、「殖産興業」(しょくさんこうぎょう:資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策)に力を入れ、不換紙幣(正貨とされた金への交換が保証されない紙幣)を大量発行していたため、深刻なインフレーションに頭を悩まされていました。
この策として講じたのが、1882年(明治15年)の日本銀行の設立。日本銀行により、これまでの明治政府発行の不換紙幣ではなく、兌換紙幣を発行し紙幣整理を推し進めました。
また、煙草税(たばこぜい)や・酒造税(しゅぞうぜい)・醤油税(しょうゆぜい)などの税金を引き上げ、財政の赤字を解消。流通通貨は縮減し、インフレーションからデフレーションに転じます。これにより、日本各地で困窮した農民が反乱を起こすなど、一部からは反感を買っていたと言います。
さらに、松方正義がインフレーションの対策として講じたのが、殖産興業政策の損失の回収です。
殖産興業の名のもとに産業を発展させるため、官営工場などに明治政府の資本を投じることで設置されていましたが、歳出は増えるばかりで、赤字のまま維持され続けている工場なども少なくありませんでした。
松方正義はこのような官営工場の一部を民間へ売却し、財政赤字の回収を行います。「富岡製糸場」(とみおかせいしじょう:群馬県富岡市)、「阿仁鉱山」(あにこうざん:秋田県北秋田市)などはそれぞれ三井・古河といった豪商へ払い下げられ、民間資本による産業発展の一端にもなりました。