俳句は、世界に知られる日本独自の文学で、最も有名な俳人が「俳聖」(はいせい)と呼ばれる「松尾芭蕉」(まつおばしょう)です。江戸初期に盛んになった俳句を、1,000年の歴史を持つ和歌と肩を並べるほどの芸術に高めたのは、松尾芭蕉の功績に他なりません。松尾芭蕉は、41歳から亡くなるまでの10年間を旅に費やし、美しい風景や名所を歩き、出会いと別れを繰り返し、行く先々で門人達と語らいました。そうした経験を文章と俳句でつづったのが、「奥の細道」をはじめとする紀行文です。旅に生きて旅に死んだ、松尾芭蕉の人生とはどんなものだったのでしょう。
ところが、主人の藤堂良忠が25歳の若さで急死。松尾芭蕉は仕事を失ったものの、俳句だけは休むことなく続けて数々の作品を発表しました。
次第に実力が認められたため、江戸へ出て本格的な俳人になろうと決意します。松尾芭蕉が29歳のとき、地元の俳人30数名が左右に分かれ、各組ひとつずつ句を出し合って優劣を競うという句会が開催されました。
このとき、勝敗の判定を行った松尾芭蕉は、その内容を「貝おほひ」(かいおおい)という本にまとめ、「上野天神宮」(うえのてんじんぐう:三重県伊賀市)へ奉納。松尾芭蕉による初の俳諧集でした。これを置き土産に、松尾芭蕉は念願の江戸へ旅立ちます。
江戸へ出た松尾芭蕉は日本橋に居を構えますが、まだ俳句だけでは生計を立てられず、水道工事の事務など様々な仕事に就きました。
32歳になった松尾芭蕉は、大坂から来た人気俳人「西山宗因」(にしやまそういん)の句会に招かれます。西山宗因は、革新的な俳句を作る談林派(だんりんは)のトップ。
その後しばらく、松尾芭蕉も談林調の俳句に傾倒しています。師匠の地位である、俳諧宗匠(はいかいそうしょう)となったのは35歳のとき。こうして松尾芭蕉はようやく一人前の俳人として世間に認められ、弟子も増えて、俳句一本で食べていけるようになったのです。
松尾芭蕉は37歳のときに深川村(ふかがわむら:現在の東京都江東区)の庵(いおり:草や竹で作った質素な住まい)へ転居。江戸の中心から不便で寂しい郊外へ移ると、ここから松尾芭蕉の真骨頂が発揮されます。
引越祝いに、「李下」(りか)という弟子がバナナの仲間である観葉植物・芭蕉(ばしょう)を庵に植えました。楕円形の大きな葉が特徴の芭蕉はやがて庵のシンボルとなり、人々はそこを「芭蕉庵」と呼んだことから松尾芭蕉の俳号が誕生したと言われます。
ある春の日、門人達が芭蕉庵に集まり、蛙(かえる)を主題に句を詠み合う催し「蛙合」(かわずあわせ)が行われました。このとき、松尾芭蕉の代表作「古池や かわず飛び込む 水の音」が生まれます。蛙と言えば鳴き声を詠むものという、常識的なパターンをひっくり返し、水の音を表現した画期的な句でした。
松尾芭蕉は41歳の秋に関西へ旅行して以来、亡くなるまでの10年間、旅を重ねて多くの旅行記を残しました。最後の旅に出たのは1694年(元禄7年)5月。
松尾芭蕉は故郷の兄に完成したばかりの「奥の細道」を手渡し、京都や滋賀でなじみの人々と旧交を温めます。江戸へ戻ろうとした矢先、大坂の弟子の間で争いが起きたと聞き、仲裁へ出向きました。ところが到着して間もなく体調を崩し、病の床へ。
「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」という辞世の句を残して息を引き取ります。享年は51歳。松尾芭蕉の遺言に従い、「義仲寺」(ぎちゅうじ:滋賀県大津市)に葬られました。
1684年(貞享元年)、松尾芭蕉は弟子の「千里」(ちり)を伴い、名古屋から故郷・上野を通って近畿一円を巡る旅に出ました。里帰りをかねたこの旅の記録が「野ざらし紀行」です。
「死にもせぬ 旅寝の果てよ 秋の暮れ」の句には、野ざらし(遺体が風や雨にさらされて白骨になること)を覚悟で旅立ったのに、死にもせず幸運だったという意味。旅の間に松尾芭蕉は各地で門人を増やし、旅を日常とする暮らしに自信を持つようになったと言われます。
1687年(貞享4年)、松尾芭蕉は、東海道を通って伊勢へ向かう「笈の小文」(おいのこぶみ)の旅に出発。名古屋、上野、奈良、大坂、伊勢、明石などを巡りました。
途中、父の33回忌法要にも参加。「ちちははの しきりに恋し きじの声」と、早世した父と死に目に会えなかった母への思いを詠みます。
復路は木曽路から信州に入り、棚田に映る田毎(たごと)の月で有名な姨捨山(おばすてやま)の夜景に感動。帰りの旅行記は「更科紀行」(さらしなきこう)にまとめられました。
「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」(月日は永遠の旅人であり、行く年来る年もまた旅人である)の有名な一文で始まる奥の細道は、松尾芭蕉の代表作。46歳になった1689年(元禄2年)、弟子の「曽良」(そら)を同行させ出発。
東北地方から北陸を南下して、岐阜県大垣に至る155日間2,400kmの旅でした。松尾芭蕉は行く先々で俳句を詠んだり、句会を開いたりして人々と交流を深めます。
奥州平泉(おうしゅうひらいずみ:現在の岩手県西磐井郡)の奥州藤原氏三代に思いを寄せた「夏草や つはものどもが 夢のあと」や、「しづかさや 岩にしみ入る せみの声」、「さみだれを 集めてはやし 最上川」など、名所旧跡をたどりながら多くの名句を詠みました。
松尾芭蕉の生まれ故郷である伊賀国上野は、忍者で有名な地。若い頃に松尾芭蕉が仕えた藤堂家の津藩には、忍者として知られる「服部半蔵」(はっとりはんぞう)一族の子孫がいたため、松尾芭蕉もここで忍者の技を学んだとの説があります。
また奥の細道には、江戸幕府の命を受け隠密(おんみつ:命を受けて諜報活動を行う者)として東北の様子を調査するという裏の目的があったという説も。しかしいずれも信憑性に欠け、それを裏付ける証拠はありません。
人生後半を旅に費やした松尾芭蕉は、身軽な暮らしを信条としていました。江戸の大火が飛び火して最初の芭蕉庵は焼失しますが、50人以上の知人、弟子達が基金を出し合い再建。しかし松尾芭蕉は奥の細道の旅に出る前、2代目芭蕉庵を人に譲ってしまいました。
松尾芭蕉が江戸に戻ってくると、弟子達は再びお金を出し合ってもとの芭蕉庵の近くに3代目の芭蕉庵を建築。しかし最後の旅先で客死したため、住んだ期間はわずかでした。