明治時代の重要用語

明治天皇 
/ホームメイト

121代「孝明天皇」(こうめいてんのう)は6人の子を授かりましたが、無事に成長したのは第2皇子の「睦仁親王」(むつひとしんのう)だけでした。孝明天皇が崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)した際、まだ16歳であった睦仁親王が即位して122代「明治天皇」(めいじてんのう)となります。しかし、時代が大きく変わろうとするなかで、即位直後の明治天皇は、明治政府の権威を象徴するための存在に過ぎませんでした。それでも若い時分より、旧態依然から脱した新たな朝廷を模索し、宮中改革にも積極的に協力しています。明治時代は、議会制民主主義の確立、清(17~20世紀初頭の中国王朝)、ロシア帝国との戦争など、日本が近代国家として生まれ変わろうとする激動の時期。明治天皇は常に、新時代の天皇としてどうあるべきかを試行錯誤し続けました。

天皇と元号一覧天皇と元号一覧
大化から令和までの天皇と元号についてご紹介します。

明治時代の重要用語

明治天皇 
/ホームメイト

文字サイズ

121代「孝明天皇」(こうめいてんのう)は6人の子を授かりましたが、無事に成長したのは第2皇子の「睦仁親王」(むつひとしんのう)だけでした。孝明天皇が崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)した際、まだ16歳であった睦仁親王が即位して122代「明治天皇」(めいじてんのう)となります。しかし、時代が大きく変わろうとするなかで、即位直後の明治天皇は、明治政府の権威を象徴するための存在に過ぎませんでした。それでも若い時分より、旧態依然から脱した新たな朝廷を模索し、宮中改革にも積極的に協力しています。明治時代は、議会制民主主義の確立、清(17~20世紀初頭の中国王朝)、ロシア帝国との戦争など、日本が近代国家として生まれ変わろうとする激動の時期。明治天皇は常に、新時代の天皇としてどうあるべきかを試行錯誤し続けました。

天皇と元号一覧天皇と元号一覧
大化から令和までの天皇と元号についてご紹介します。

新時代の明治天皇の若き日

明治政府の飾り人形

明治天皇

明治天皇

明治天皇は江戸時代末期の1852年(嘉永5年)、京都で誕生。

最初の政治にかかわったのは、1867年(慶応3年)の「倒幕の密勅」(とうばくのみっちょく)と言われます。これは薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)、長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)に対して、江戸幕府を討つよう命じたものでした。

しかし、これには勅書(ちょくしょ:天皇の命令)の証明である「御璽」(ぎょじ:天皇の印鑑)がないため、実際には朝廷内の討幕派を主導した「岩倉具視」(いわくらともみ)らが勝手に作成したものと考えられています。

同年12月、「京都御所」(きょうとごしょ:京都府京都市)で行われた「小御所会議」(こごしょかいぎ)において、江戸幕府の廃止と明治政府の成立を宣言する「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)が出されます。

明治天皇はこの会議に親臨(しんりん:天皇自身が会議などに臨むこと)。しかし会議中、江戸幕府に同情的な土佐藩(とさはん:現在の高知県高知市)15代藩主「山内容堂」(やまうちようどう)が、「幼い天皇は操り人形に過ぎない」と発言し、岩倉具視から無礼を厳しくたしなめられました。これは、即位間もない明治天皇が、まだ自分の意志で政治的決断を下せる状況でなかったことを示しています。

西郷隆盛とともに

西郷隆盛

西郷隆盛

1870年(明治3年)頃から、薩摩藩の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)らが中心となって宮中改革とともに、明治天皇の教育を行うようになりました。

従来の天皇は、ほぼ内裏(だいり:天皇が住み、執務を行う部屋)で過ごすことが当たり前でしたが、宮中改革によって、天皇も積極的に政治にかかわります。

また、明治天皇は武芸の稽古にも励み、軍服を着用して乗馬する明治天皇の姿を見た女官(にょかん:宮廷に務める女性官吏)達がひどく驚いたことが記録に残っています。

西郷隆盛がつくろうとしていた日本とは、このように明治天皇が先頭に立ち、西郷隆盛以下の重臣が付き従っていく国というイメージでした。明治天皇もその想いを理解し、自分自身もその姿に近づくよう努力したのです。

しかし、のちに日本と李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)が対立したとき、死を覚悟して李氏朝鮮に赴くと決めた西郷隆盛に対して、死なせたくなかった明治天皇は、李氏朝鮮への派遣の中止を決定。

これが原因で西郷隆盛は、明治政府主流派の「大久保利通」(おおくぼとしみち)らと対立して明治政府を離れ、1877年(明治10年)には不平士族(しぞく:旧武士層)と共に「西南戦争」(せいなんせんそう)を起こして、明治政府軍に討伐されてしまいます。自分の言葉がのちに深刻な事態を引き起こしたことに、明治天皇は深く心を痛めたとされます。

専制を嫌った明治天皇

天皇大権への違和感

当時、世界の潮流は君主による専制政治から、国民主導による民主的な政治へと変わっていきます。しかし、大久保利通、岩倉具視のあとに権力を引き継いだ「伊藤博文」(いとうひろぶみ)、「山縣有朋」(やまがたありとも)は、世界の動きとは逆に、明治天皇を利用して専制的な政治体制を維持しようと画策。

1888年(明治21年)に始まった「大日本帝国憲法」(だいにっぽんていこくけんぽう)の制定会議でも、明治天皇の意見はほとんど考慮されず、ただ署名することだけを求められたのです。しかしながら、「欽定憲法」(きんていけんぽう:人民の意志ではなく、君主が定めた憲法)という形式で発布されたことに、明治天皇は強い違和感を持ちました。

さらに、大日本帝国憲法では、すべての統治権が天皇にあるという「天皇大権」(てんのうたいけん)が定められていましたが、明治天皇自身、自らの地位はそのような専制的なものであってはならないと、常に考えていたとされます。

教育勅語への想い

さらに1890年(明治23年)に出された「教育勅語」(きょういくちょくご:近代日本における教育の基本方針)は、天皇からの言葉を意味する「勅語」(ちょくご)の体裁を取ってはいますが、実際には明治政府高官「井上毅」(いのうえこわし)らが起草したものでした。

教育勅語にある、「国憲ヲ重ンジ、国憲ニ遵ヒ」(こっけんをおもんじ、こっけんにしたがい)という文言に対して、天皇の側近が「これは天皇大権に制限を加えるものですから削除しましょう」と進言。しかし明治天皇は、「大切な文言ですから残しておきましょう」と答えました。

この事実ひとつを取っても、明治天皇が憲法の上に自分が立つべきではないと考えていたことが分かります。政務に関しても自らの考えは述べず、明治政府内における派閥の対立、議会が紛糾したときなどに、しばしば「詔勅」(しょうちょく:天皇のお言葉)を発して調停、融和を図るに留めました。

幻の第二教育勅語

西園寺公望

西園寺公望

その後、教育勅語を改正しようという動きが一度だけ起こったことがあります。

1894年(明治27年)に第2次伊藤博文内閣の文部大臣に就任した「西園寺公望」(さいおんじきんもち)は、かねてより教育勅語が国家主義(こっかしゅぎ:自国を第一に考える政治思想)に偏り過ぎていることを不安視。

そこで、明治天皇に対して「国際社会における日本国民の役割などを入れて改正すべきではないでしょうか」と提案。明治天皇も賛同し、「第二教育勅語」発布の準備が内々で進められていったのです。しかし、直後に西園寺公望が病気で辞職してしまい、新しい教育勅語が出されることはありませんでした。

世界平和を望んだ明治天皇

平和を希求する想い

海外諸国が覇権争いを行うなか、日本も否応なく戦争に巻き込まれることになります。1904年(明治37年)に「日露戦争」(にちろせんそう)が始まると、明治天皇は一首の和歌を詠みました。

「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」
(意味:日本をとりまく国々はみな兄弟姉妹だと思っているのに、なぜ波風が騒ぎ立つのであろう)

この歌は、のちに124代「昭和天皇」(しょうわてんのう)が、「太平洋戦争」(たいへいようせんそう)開戦を決める「御前会議」(ごぜんかいぎ)で引用し、自身の悲痛な胸の内を代弁させた歌としても知られます。

実は、明治天皇がこの歌を詠んだのは日露戦争ではなく、西南戦争で敬愛する西郷隆盛が、明治政府軍に反乱を起こしたときだという説もあります。

平癒の祈りのなかで

1912年(明治45年)7月11日、明治天皇は、「東京帝国大学」(とうきょうていこくだいがく:現在の東京大学[とうきょうだいがく]の前身)の卒業式に出席して気分が悪くなり、そのまま入院。同20日に明治天皇が重体ということが報道されると、翌日から多くの市民が皇居周辺に集まり、平癒の祈りを捧げました。

また東京では、闘病中の明治天皇に騒音が届かないようにするため、皇居である「江戸城」(えどじょう:東京都千代田区)の濠(ほり)を走る電車を徐行させたり、三宅坂(みやけざか)の交差点では軌道にボロ布を敷いたりしていたことが記録されています。

しかし人々の祈りも空しく、7月30日の深夜に崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)。近代国家にふさわしい天皇像を手探りし続けた、60年の人生に終止符を打ったのです。

明治天皇をSNSでシェアする

注目ワード
注目ワード