「明治十四年の政変」は、「開拓使」(北海道開拓のための臨時官庁)の「官有物払い下げ事件」(かんゆうぶつはらいさげじけん)を機に、「伊藤博文」(いとうひろぶみ)が国会設立について意見が対立する「大隈重信」(おおくましげのぶ)を、明治政府中枢から追放した事件です。明治政府は「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう:民意を政治に反映するため国会開設を目指した政治運動)の高まりを抑えきれなくなり、国民が求めた国会の開設と憲法の制定を決定。民意・憲法による「立憲政治」(りっけんせいじ)へつながる転機となった一方で、明治政府内では伊藤博文を中心とした「薩長藩閥」(さっちょうはんばつ:旧薩摩藩[さつまはん:現在の鹿児島鹿児島市]、旧長州藩[ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市]出身者による独占的かつ排他的な派閥)体制が確立したきっかけにもなりました。
明治時代の初頭、明治政府は、明治維新で中心的な役割を果たした旧薩摩藩、長州藩、土佐藩(とさはん:現在の高知県高知市)、肥前藩(ひぜんはん:現在の佐賀県佐賀市)の出身者のみが権力を握る「藩閥政治」が行われていました。
しかし、次第に藩閥政治のやり方に不満を持つ勢力が現れ、民意を政治に反映するための国会開設を求めた自由民権運動の機運が高まっていきます。
自由民権運動で掲げられた要求のうち、特に重視されたのが、すべての前提となる国会開設と憲法制定。世間では「私擬憲法」(しぎけんぽう:民間で検討された憲法の草案)がいくつも作られました。
これに対して明治政府は、政府批判を行う新聞を取り締まる「新聞紙条例」、政治結社・集会を届け出制にして制限をかけた「集会禁止条例」を発布。国会中心の国づくりを求める、急進的な自由民権運動に弾圧を加えました。
しかし、自由民権運動がこれまでにない隆盛を見せるようになると、明治政府内でも欧米諸国と対抗するため、国会開設と憲法制定を進める必要性があるという考えが強くなっていきます。
そこで、1879年(明治12年)に各参議(さんぎ:明治政府の重職)が順次、憲法制定の方針について意見書を提出。
明治政府の中心人物だった伊藤博文は、時間をかけて準備を進める漸進的(ぜんしんてき:順を追って実現すること)な国会開設と、安定的な政権を作るために天皇の権限を強くしたプロイセン(ドイツ)流の憲法を制定する構想を示しました。
一方、大隈重信は1881年(明治14年)1月に、左大臣(さだいじん:政府の最高機関・太政官[だじょうかん]の役職)の「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう:皇族で政治家)の督促を受けて、ようやく意見書を提出します。その内容は1年以内に憲法を制定し、2年後には国会を開設するという急進的なもの。さらにイギリス流の「議院内閣制」(ぎいんないかくせい:議会により承認された内閣が政権を担う政治制度)を取り入れるべきという内容でした。
大隈重信は有栖川宮熾仁親王に、他の参議及び大臣らに意見書を見せないように伝えていたため、伊藤博文が大隈重信の意見書の内容を知ったのは6月になってからのこと。伊藤博文と大隈重信の間には、国会開設と憲法制定について緩やかな合意があったのですが、大隈重信が他の参議に意見書を提示しようとしなかったことで、伊藤博文を中心とした明治政府首脳は、大隈重信に対し不信感を募らせました。
自由民権運動で明治政府が揺れるなか、「開拓使官有物払い下げ事件」 が起こります。
開拓使は北海道開拓の礎を築いた事業ではあったものの、明治政府の深刻な財政難から1882年(明治15年)に廃止されることが決定。開拓使長官の「黒田清隆」(くろだきよたか)は、開拓使の事業が廃止以降も継続できるよう、官営工場などを民間に払い下げることにしました。
その払い下げ先となったのが、開拓使の役人が退官して設立した「北海社」(ほっかいしゃ)と、旧薩摩藩出身で黒田清隆と同郷の「五代友厚」(ごだいともあつ)の「関西貿易商会」。しかも払い下げの価額が、無利息30年割賦の390,000円(現在の14億円)という極端に安いものだったため、黒田清隆が同郷の政商(せいしょう:権力者の保護を受けて特権的な利益を得る商人)五代友厚を優遇しているとして、複数の新聞社が批判的に報じたのです。
この開拓使官有物の払い下げ問題は、国民の藩閥政治に対する不満と相まって、大きな汚職問題として扱われます。
民権派(自由民権運動派)の知識人が中心となって、明治政府を非難する社説を何度も新聞に掲載。明治政府は国民から批判の的になったのです。そして、明治政府内でも開拓使の官有物払い下げに反対した大隈重信は、国民から英雄的な支持を得るようになっていきました。
一方で伊藤博文をはじめとする明治政府首脳は、大隈重信が外部に開拓使の官有物払い下げ情報をリークしたのではないかと疑いを持つようになります。
実はこの少し前、「岩崎弥太郎」(いわさきやたろう)の「郵便汽船三菱会社」が、開拓使官有物の払い下げに手を挙げて却下されたという出来事がありました。その郵便汽船三菱会社は、大隈重信と密接な関係のある政商。そのため、大隈重信が岩崎弥太郎と手を結んで、黒田清隆と五代友厚の薩摩閥に対抗していると考えられたのです。
1881年(明治14年)7月から、122代「明治天皇」の東北・北海道地方への行幸(ぎょうごう:天皇が地方へ出かけること)が行われました。大隈重信は行幸に同行したため、東京に残った伊藤博文はその間に事態を収拾させる策を考えます。
世間を騒がせた開拓使官有物の払い下げ中止と、1890年(明治23年)に国会を開設することを決め、10月11日に明治天皇が帰京するやいなや、裁可を仰いで「国会開設の勅諭」(こっかいかいせつのちょくゆ)が発せられました。
明治政府としては、これによって民権派の明治政府への批判をかわし、鎮静化させたいというのが狙い。民権派からしても、薩長藩閥の明治政府が払い下げの中止のみならず、国会開設にまで踏み切るとは考えていなかったため、驚きをもって受け止められました。
また開拓使官有物払い下げ事件によって、大隈重信と伊藤博文の意見の対立は決定的なものに。明治政府内でも、大隈重信が陰謀をめぐらせて、国民の明治政府批判をあおっていると考える向きが強くなり、ついに大隈重信の罷免を決定。さらに、大隈重信に近い「小野梓」(おのあずさ)、「前島密」(まえじまひそか)、「犬養毅」(いぬかいつよし)などの官僚も大量に辞職することになりました。
こうして伊藤博文は、自らの主導権のもとに立憲政治の実現を図ることになり、藩閥政権が確立することになったのです。
国会開設と憲法の制定が約束されたことを受けて、民権派は国会に向けた準備に入ります。「板垣退助」(いたがきたいすけ)を中心に「自由党」を結成。1882年(明治15年)には、大隈重信と大隈派官僚も政党結成に動き、「立憲改進党」を結成します。
また明治政府系の保守政党として、「東京日日新聞」(とうきょうにちにちしんぶん:現在の毎日新聞の前身)社長の「福地源一郎」(ふくちげんいちろう)を中心に「立憲帝政党」も結成されました。
また、憲法の制定も進められ、伊藤博文はドイツのプロイセン憲法を参考に日本独自の憲法を作ろうと調査を行います。そして1889年(明治22年)に、国会や選挙について定められた「大日本帝国憲法」(だいにっぽんていこくけんぽう)が公布となり、これをもとに1890年(明治23年)7月に「第1回衆議院議員総選挙」が実施。11月には日本初の国会となる「第1回帝国議会」が召集されたのでした。