明治時代の重要用語

明治六年の政変 
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「明治六年の政変」(めいじろくねんのせいへん)とは、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)との国交樹立を早急かつ強硬に推し進めるべきという「征韓論」(せいかんろん)を巡って明治政府首脳が分裂し、1873年(明治6年)に、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)・「板垣退助」(いたがきたいすけ)・「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)・「副島種臣」(そえじまたねおみ)・「江藤新平」(えとうしんぺい)ら、征韓論を主張した明治政府高官がいっせいに辞職したできごとです。これが「民撰議院設立の建白書」(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)を生み、「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう)へとつながっていきます。

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「明治六年の政変」(めいじろくねんのせいへん)とは、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)との国交樹立を早急かつ強硬に推し進めるべきという「征韓論」(せいかんろん)を巡って明治政府首脳が分裂し、1873年(明治6年)に、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)・「板垣退助」(いたがきたいすけ)・「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)・「副島種臣」(そえじまたねおみ)・「江藤新平」(えとうしんぺい)ら、征韓論を主張した明治政府高官がいっせいに辞職したできごとです。これが「民撰議院設立の建白書」(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)を生み、「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう)へとつながっていきます。

明治六年の政変の背景

明治政府が直面していた外交課題

明治政府は、その発足直後から、国政はもちろん、外交においても早急に対処しなければならない3つの大きな課題を抱えていました。明治政府が「富国強兵」(ふこくきょうへい:経済を発展させて軍事力の増強を図る政策)をスローガンとしたのも、「欧米列強と対等な関係になるため」、「強くなって自国を守るため」が何よりの目的です。

ひとつ目の課題は、欧米列強との間で結んでいた日本に圧倒的に不利な「不平等条約の改正」。1871年(明治4年)11月に「岩倉具視」(いわくらともみ)を筆頭として、「木戸孝允」(きどたかよし)・「大久保利通」(おおくぼとしみち)・「伊藤博文」といった明治政府主要メンバーを中心とした「岩倉使節団」(いわくらしせつだん)を結成します。

そして使節団として欧米諸国へ出向いた目的の中に、不平等条約の改正へ向けた交渉がありました。2つ目と3つ目の課題は、「近隣外交の構築」と「国境の画定」。当時、日本の安全保障政策において、ロシア帝国の南下をいかにして食い止めるかが、非常に大きな問題でした。

ロシア帝国と陸続きの清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)もロシア帝国の脅威にさらされており、日本は清・李氏朝鮮と正式な国交を結び協力し合うなかで、それぞれが自国を守り、ロシア帝国・欧米列強と対等に付き合えるようにしていきたいと考えていました。

明治六年の政変の概要

留守政府内で沸騰した征韓論

日本が様々な外交課題に直面し、かつ岩倉使節団の面々がいない間、明治政府で政権を担当していたのは、太政大臣「三条実美」(さんじょうさねとみ)をはじめ、西郷隆盛・板垣退助・「大隈重信」(おおくましげのぶ)、江藤新平ら「留守政府」(るすせいふ)と呼ばれた人達でした。

留守政府は、岩倉使節団が戻るまで重要な政策決定は行わない約束となっていましたが、「四民平等」(しみんびょうどう:旧士農工商身分の平等化)の実現、「徴兵令」(ちょうへいれい:国民を一定期間兵士として勤務させる制度)・「学制」の施行、裁判所の整備、太陽暦への改暦(かいれき)など様々な大改革を進めます。

さらに、直面していた外交課題のうちの2つ、清・李氏朝鮮・ロシアなどの近隣諸国との国交樹立・国境画定のための交渉にも精力的に取り組んだのです。日本と清との間では、まだ岩倉具視らが日本にいた1871年(明治4年)9月に、「日清修好条規」(にっしんしゅうこうじょうき)という、日本が外国と初めて対等な立場で結んだ画期的な条約が締結できていました。

一方、当時の李氏朝鮮とは、李氏朝鮮側が鎖国攘夷(さこくじょうい:諸外国と国交せず追い払う考え)の政策を採っていたこともあり、明治政府が再々、国交樹立に向けた使節を送りますが頑なに拒否。

それは、李氏朝鮮側に「朝鮮半島は、歴史的に中国王朝を宗主国[そうしゅこく:朝鮮を支配する国]とし、その中国文明を吸収した自分達は、そうではない日本よりも上位にある。さらに排除すべき欧米諸国を見習い始めた日本人など相手にすべきではない」という思想があったためと考えられています。

その思想がはっきりと示されたのが、1873年(明治6年)、釜山(ぷさん)の倭館(わかん:日本の通交特使のための建物)前に張り出された「日本は夷狄と化してしまった。我が国において日本人とかかわる者は、死刑に処す」という布告でした。

夷狄(いてき)とは、古代中国で東方の未開国を夷、北方のそれを狄と言ったところから付いた名称で、いわゆる日本を野蛮な民族とみなすという意味。日本の外交官がこれを目にすることとなり、留守政府内部で一気に征韓論が沸騰していったのです。

征韓論と「内治優先論」の戦い

板垣退助は、軍勢を派遣して李氏朝鮮を討伐することを強く主張。しかし、西郷隆盛は、いきなり軍隊を送ることには反対の立場を取り、「自身が李氏朝鮮に赴いて説得にあたる」とこちらも強固な立場を見せました。西郷隆盛の意見に、後藤象二郎・江藤新平・副島種臣らが賛成。

さらには、留守政府のトップであった三条実美も西郷隆盛の案に賛成の意を表し、1873年(明治6年)、西郷隆盛を李氏朝鮮へ派遣して開国を迫ることが決定されたのです。しかし、岩倉使節団より先に帰国した大久保利通・木戸孝允が、「内治優先論」(ないちゆうせんろん:工業化・立憲制の確立など日本国内の整備が先という意見)を主張。

さらに1873年(明治6年)9月に岩倉使節団が帰国すると、岩倉具視は「内務の充実に邁進すべき時期に外征を企てるとは何事だ」と、断固として征韓論に異を唱えたのです。

大久保利通も岩倉具視と同じ立場を示し、明治政府内では、連日、西郷隆盛・板垣退助を筆頭とする征韓論側と、岩倉具視・大久保利通を筆頭とする征韓論反対派との間で、非常に激しい議論が繰り広げられました。

西郷隆盛・板垣退助ら多くの政府首脳が辞職

この決着は、あっけない幕切れで終わりを迎えます。征韓論に肯定的だった三条実美は、この激論が精神的ストレスとなり、過労で倒れることに。代わって太政大臣を担ったのが岩倉具視で、大久保利通・伊藤博文らとともに、第122代「明治天皇」(めいじてんのう)に閣議決定を裁可しないように求め、結果的に征韓論は封じ込められてしまったのです。

これに反発した西郷隆盛は、抗議の意味を込めて即座に辞表を提出。続いて板垣退助・後藤象二郎・副島種臣・江藤新平などが合議を無視した専制的な姿勢として、いっせいに辞職。このとき、明治政府を去ったのは軍人・官僚合わせて約600人。これが「明治六年の政変」と呼ばれるものです。

明治六年の政変のその後

西南戦争で散った西郷隆盛は「征韓論者」だったのか?

明治六年の政変後、西郷隆盛は鹿児島に帰郷し、私学校と吉野開墾社(よしのかいこんしゃ)を設立し、国家を担う人材の育成にあたりました。そして、1877年(明治10年)の「西南戦争」(せいなんせんそう)を起こし、この世を去ります。

西郷隆盛は、歴史教科書などでは、征韓派の主要人物として政界を去ったと簡単に書かれていますが、西郷隆盛が主張したのは征韓論ではなく、あえて名付けるなら「遣韓論」(けんかんろん)。つまり、あくまで交渉による李氏朝鮮の開国を目指していたというのが本当のところだと言われています。

西郷隆盛は、板垣退助に対し、「使節として赴いた自分が謀殺されれば、それが開戦のきっかけになるだろう」という文を送っており、これが、西郷隆盛が征韓論者だったという根拠になっていますが、これは西郷隆盛の真意ではなく、「強硬に征韓を主張する板垣退助・副島種臣に対する引き締め、また対外的威圧の効果などをねらった意図的なもの」という見方があるのです。

現に、西郷隆盛は征韓論の話し合いの場で、「李氏朝鮮側の無礼は許し難いが、出兵してしまうと、日本は侵略を企てていると李氏朝鮮に思われてしまう。私達はまだ手立てをすべて尽くしたとは言えない。まず、兵を伴わずに責任ある全権大使が赴いて礼を厚くし、道理と公道により説得にあたり、李氏朝鮮側の反省を促すべきではないか」という趣旨の発言をしています。

自由民権運動へ動いた板垣退助達

一方、西郷隆盛と同じく、明治六年の政変で政府を去った板垣退助・後藤象二郎・江藤新平、副島種臣らは、1874年(明治7年)1月12日に、「愛国公党」(あいこくこうとう)という日本最初の政党を結成。民撰議院設立の建白書を明治政府に提出しています。

「民撰」とは「選挙で選ばれた議員」のことで、「国会を開き、民意を政治に反映させることが大切である」と議会の開設を提言。これ以後、国民の参政権を確立することを目指した、自由民権運動が急速に広まっていきました。

結局、征韓論はどうなったのか?

では、征韓論そのものはどうなったのでしょうか。実は、征韓論と内治優先論の戦いという構図は、分かりやすく言うと「今すぐ李氏朝鮮へ出兵」と「李氏朝鮮への出兵は必要だが時期早々」でした。明治六年の政変では、西郷隆盛と対立した木戸孝允ですが、のちに征韓論を盛り上げていきます。

江華島事件_月岡芳年「雲揚艦兵士朝鮮江華戦之図」(国立国会図書館ウェブサイトより)

江華島事件 月岡芳年「雲揚艦兵士朝鮮江華戦之図」

これは矛盾ではなく、単に時期の問題だったのです。結果的に、1875年(明治8年)、李氏朝鮮の近海へ軍艦を派遣して、李氏朝鮮側の砲撃を誘発した「江華島事件」(こうかとうじけん)が起こり、これをきっかけに日本は李氏朝鮮に開国を要求。

翌1876年(明治9年)に「日朝修好条規」(にっちょうしゅうこうじょうき)が結ばれています。しかし日朝修好条規は、清と締結した日清修好条規とは違い、日本に有利な不平等条約でした。

【国立国会図書館ウェブサイトより】

  • 江華島事件 月岡芳年「雲揚艦兵士朝鮮江華戦之図」

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