「源頼義」(みなもとのよりよし)は、平安時代中期の武士で、「河内源氏」(かわちげんじ:現在の大阪府に根拠地を置く源氏の一族。武士で源氏を名乗る者はこの一族を指す)2代目棟梁。名門の河内源氏出身とはいえ、母の身分が低かったために出世が遅く、武人として活躍するのは60歳を超えてからでした。また、のちに鎌倉幕府を興した「源頼朝」(みなもとのよりとも)の5代祖先に当たり、源頼朝が鎌倉(神奈川県鎌倉市)を拠点とするきっかけを作ったのは源頼義だったのです。
源頼義は幼い頃から武芸に優れ、成人してからは弓の腕前は達人級であったと言われます。父・「源頼信」(みなもとのよりのぶ)も我が子を高く評価し、朝廷に対して源頼義を推挙したほど。
源頼義が「国司」(こくし:地方の行政官)として、相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)へ赴任していたときのこと。
地元の豪族「平直方」(たいらのなおかた)から、「私達は平氏の直系であり、日頃から武芸に励んできたが、国司殿ほどの弓の名人を見たことがない。ぜひ娘を后に迎えてほしい」と懇願されます。しかも、鎌倉にあった邸宅や領地、一族まですべて譲るという破格の条件付き。ありがたく受け入れた源頼義が鎌倉を本拠地としたことから、源頼義の子孫は鎌倉をひときわ大切な地として捉えるようになったのです。
出世が遅かった源頼義は、その後も地方行政官として活動。そして1051年(永承6年)、平穏に暮らしていた源頼義の人生は、少しずつ争いへと巻き込まれていきます。
陸奥国(むつのくに:現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県)の豪族・「安倍氏」(あべし)が税の徴収に応じず、さらに安倍氏の領土の外へ兵を進めたため、陸奥国司が制圧に向かいました(前九年の役[ぜんくねんのえき])。
しかし国司軍が敗れたため、新たな国司として派遣されたのが源頼義だったのです。源頼義が赴任すると安倍氏の当主「安倍頼良」(あべのよりよし)は、戦いをやめて恭順(きょうじゅん:命令に従うこと)。しかも自分の名が、国司の源頼義と同じでは恐れ多いとして「安倍頼時」(あべよりとき)と改名したほどでした。
その後は何事もなく過ぎましたが、5年後の1056年(天喜4年)、陸奥国司としての任期が終わり、都へ戻ろうとした源頼義の一行が、何者かに襲撃されました。
これが安倍頼時の子・「安倍貞任」(あべのさだとう)の犯行と判明し、再び安倍氏との合戦が始まってしまいます。
そして翌1057年(天喜5年)の冬、「黄海の戦い」(きのみのたたかい)で源頼義軍は大敗。当初、1,800名だった軍勢は、最後にはわずか6名しか残っていなかったとされます。
このとき源頼義は、嫡男・「源義家」(みなもとのよしいえ)の活躍で九死に一生を得ますが、朝廷からの増援もなく、戦いは長い膠着状態に入ってしまいました。
1062年(康平5年)、再び源頼義の陸奥国司としての任期が満了。朝廷は別の人物を陸奥へ遣わしましたが、陸奥の「官人」(かんじん:官僚)が従わなかったため、源頼義は3度目の国司に就任します。
その後、出羽国(でわのくに:現在の山形県、秋田県)の豪族・「清原武則」(きよはらのたけのり)の軍を味方に付けた源頼義は、難攻不落と言われた「小松柵」(こまつのさく:岩手県奥州市)や「衣川柵」(ころもがわのさく:岩手県奥州市)などを次々と撃破。そして遂に安倍氏の本拠地「厨川柵」(くりやがわのさく:岩手県盛岡市)を包囲します。
厨川柵は極めて巨大な砦で、内部には数千人が生活していました。大将の安倍貞任は、建物の上で女官に舞を踊らせるなどして源頼義軍を挑発。一向に進まない戦況に、しびれを切らした源頼義は、柵に火を放って安倍軍をせん滅。これによって12年に及んだ「前九年の役」は終了しました。
翌1063年(康平6年)、源頼義は都へ凱旋。都大路には、長い戦いに勝利した源頼義を見ようと「黒山の人だかり」(くろやまのひとだかり:人々が大勢集まっている様子)ができたと伝えられます。
その後、源頼義は伊予国(いよ:現在の愛媛県)の国司に就任。当時、伊予国は日本で最も収入の高い国で、伊予国の国司に任命されるということは、武人としては極めて名誉なことだったのです。
しかし源頼義はその後も都にとどまり、部下達の褒美を得るための交渉を続けました。また戦時中に滞っていた分の「官物」(かんぶつ:税として朝廷へ納める米や絹織物など)は、すべて私費を投じて納めたと伝えられます。