「源義家」(みなもとのよしいえ)は平安時代後期の武将。1039年(長暦3年)生まれで、7歳のときに「石清水八幡宮」(いわしみずはちまんぐう:京都府八幡市)で「元服」(げんぷく:成人となる儀式)を行ったことから「八幡太郎」(はちまんたろう)と呼ばれます。父・「源頼義」(みなもとのよりよし)とともに「前九年の役」(ぜんくねんのえき)に参戦し、大いに活躍したことで天下一の武勇を全国に知らしめました。武勇に優れた逸話が多い反面、「源氏のなかでも八幡太郎だけは危険」と世間から恐れられた人物でもあったのです。
成人した源義家は、父と同様に国司として各地へ派遣されました。1083年(永保3年)、陸奥の国司に就任したとき、出羽国(でわのくに:現在の山形県、秋田県)の豪族「清原氏」(きよはらし)の内紛に介入。
3年をかけて清原氏を討ち、混乱を鎮めます(後三年の役[ごさんねんのえき])。しかしその3年間、出羽国から「官物」(かんもつ:税として朝廷へ納める品)である砂金が都へ届かなくなってしまいました。
砂金は宮中行事の装飾を作るのに必須であったため、朝廷はこの事態にひどく困惑。そんな折、源義家から「このたびの戦いは私の力だからできたこと。早く清原氏を討つ命令を出してほしい」という事後報告が届きます。
朝廷はこれを拒否し、この戦いはあくまでも源義家と清原氏の私的な合戦と断定して、褒美を出しませんでした。源義家は仕方なく部下への褒美をすべて自費で払い、さらに10年をかけて、滞っていた官物を朝廷へ納めたと伝えられます。
そのあとも全国へ赴き、治安維持に努めた源義家は、1106年(嘉承元年)に68歳で死去。この死に際して、「源義家はまことに大将軍の名にふさわしい人物であった」という声が残されています。しかし、その翌年の1107年(嘉承2年)、隠岐(おき:現在の島根県隠岐郡隠岐の島町)に流されていた源義家の次男・「源義親」(みなもとのよしちか)が反乱を起こしました。
源義家の武勇をたたえる一方で、朝廷軍に討伐されたこの反乱事件について、「源義家が長年、無実の人を殺してきた報いだ」という声もあったのです。
前九年の役では、敵将「安倍貞任」(あべのさだとう)との間に、次のようなやりとりがありました。衣川(ころもがわ:現在の岩手県西磐井郡平泉町)から敗走する安倍貞任を追う源義家が、矢を構えて「衣のたてはほころびにけり」(衣の縦糸がほころぶように、衣川の建物は滅んでしまったぞ)と和歌の下の句を読むと、安倍貞任が振り返り「年を経し糸の乱れの苦しさに」(年月を経た糸が乱れるように、衣川の建物も滅んでしまった)と、上の句で返答。源義家は、こんな状況でも歌を返してきたことに感心し、安倍貞任へ矢を射るのをやめたと伝えられます。
前九年の役のあと、捕虜となった「安倍宗任」(あべのむねとう:安倍貞任の弟)は源義家の家来となります。ある日、源義家は落ちていた矢を拾うと安倍宗任に背中を向け、源義家の矢筒へ入れるように命じました。
いまだに安倍宗任が源義家を憎んでいたとしたら、背を向けた時点で殺されていたかもしれません。これは、源義家の豪胆な性格に加え、安倍宗任に対して絶対的な信頼感を持っていたことを示す、逸話として語り継がれています。
後三年の役での逸話として、源義家軍が草むらを進軍していると、たまたま上空を飛んでいた雁(がん)の列が急に乱れました。
それを見た源義家は、近くに敵が待ち伏せていることを察知。付近を探ると30名ばかりの敵兵が見つかり、源義家の部下が弓矢で倒して事なきを得ました。
後三年の役では、「金沢柵」(かねざわさく:秋田県横手市)へ立て籠った「清原家衡」(きよはらのいえひら)を攻めあぐねます。そこで源義家は部下の意見を取り入れ、投降してきた女・子供を見せしめとして、その場で殺害するという暴挙に。
この見せしめによって、柵(砦)から外へ出れない状況をつくり、食糧を消費させて敵を飢えさせる狙いがあったのです。そして最終的には、砦にいた者を全員殺してしまいました。
のちに「後白河法皇」(ごしらかわほうおう:第77代・後白河天皇が上皇となり出家した際の尊号)が編纂した「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう:当時の流行り歌である今様[いまよう]を集めた歌謡集)には、「鷲の棲む深山[みやま]には なべての鳥は棲むものか同じき源氏と申せども 八幡太郎は恐ろしや」という歌が収録されています。この歌は残忍な行いから、源氏のなかでも源義家がことさらに恐れられていた証拠なのです。
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