「源義朝」(みなもとのよしとも)は平安時代後期の武将。「河内源氏」(かわちげんじ:現在の大阪府に根拠地を置く源氏一族。武士で源氏を名乗る者はこの一族を指す)の6代目棟梁で、東北地方の反乱を平定して名を挙げた名将・「源頼義」(みなもとのよりよし)の玄孫(やしゃご:ひ孫の子)にあたります。源義朝は「保元の乱」(ほうげんのらん)に勝利して源氏嫡流(ちゃくりゅう:本家の系統)の座を確固たるものにしますが、続く「平治の乱」(へいじのらん)で「平清盛」(たいらのきよもり)勢に敗れて落命。その雪辱を果たしたのが、嫡男の「源頼朝」(みなもとのよりとも)でした。
源義朝は、幼年期を父「源為義」(みなもとのためよし)とともに、安房国(あわのくに:現在の千葉県南端部)で過ごしました。その後は上総国(かずさのくに:千葉県中部)に移住。「上総御曹司」(かずさのおんぞうし)と呼ばれ、三浦氏・上総氏・千葉氏など、関東に住む平氏一族から庇護されていたことが記録に残っています。
成長した源義朝は、やがて南関東に勢力を伸ばし、房総半島と相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)の武士団を統率。そして、源頼義ゆかりの鎌倉・亀ヶ谷に館を築き、この場所を拠点としました。
このときの活躍が朝廷の目にとまり、源義朝は東国の支配を長男「源義平」(みなもとのよしひら)に任せると、自身は活躍の場を都へ移します。
1156年(保元元年)に鳥羽法皇が病に倒れると、前年に即位した77代「後白河天皇」(ごしらかわてんのう)は、次に院政を敷く可能性がある「崇徳上皇」(すとくじょうこう:75代・崇徳天皇が譲位したあとの天皇の尊号)を排除すべく、崇徳上皇の屋敷を攻撃。これが「保元の乱」の始まりです。源為義は摂関家の「藤原忠実」(ふじわらのただざね)とともに崇徳上皇に味方し、源義朝は後白河天皇を支持。親子が敵味方に分かれて激突しました。
この戦いでは後白河天皇側が勝利し、崇徳上皇は讃岐国(さぬきのくに:現在の香川県)へ流罪となり、源為義は捕らえられてしまいます。そして源義朝の懸命な助命嘆願もむなしく処刑に。このとき、源為義を処刑したのは源義朝自らであったとされます。これほどの働きをしたにもかかわらず、戦後、源義朝の褒賞は決して満足いくものではありませんでした。
一方、同じく後白河天皇側で戦った平氏には極めて高い褒賞が与えられており、これに源義朝は不満を募らせていきます。
その後、後白河天皇は出家して「後白河上皇」(ごしらかわじょうこう)となり、代わりに78代「二条天皇」(にじょうてんのう)が即位。この頃から後白河法皇は、それまで朝廷で権力を持っていた摂関家「藤原信頼」(ふじわらののぶより)に代わって僧侶「信西」(しんぜい:俗名・藤原通憲[ふじわらのみちのり])を重用し始めます。
すると朝廷内に、信西を良く思わない反勢力が出現。その中心人物となったのが藤原信頼でした。平清盛が後白河法皇に寵愛される信西に味方すると、後白河法皇に不満を抱いていた源義朝は、藤原信頼を支持。これに様々な権力闘争がからみあい、朝廷内は藤原信頼派と信西派の真っ二つに分かれてしまいました。
こうして1159年(平治元年)に起きたのが「平治の乱」です。
最初に行動を起こしたのは源義朝と藤原信頼でした。平清盛が熊野(くまの:現在の和歌山県南部、三重県南部)に出掛けた留守を狙い、後白河法皇を幽閉(ゆうへい:部屋に押し込め、外出を禁止)。逃げ出した信西も源頼朝に追われて自害しました。
しかし平清盛が熊野から戻ると形勢は逆転。藤原信頼は捕らえられて首を切られ、源義朝は尾張国(おわりのくに現在の愛知県西部)まで逃げ延びたところで配下の武将に殺されてしまいます。この2つの戦いによって、もはや貴族だけでは政治を行うことができず、強力な武士団の力が必要だということを誰もが思い知ったのです。
こうして平氏の天下が始まり、源氏の嫡流は滅んだかに思われました。しかし源頼朝や「源義経」(みなもとのよしつね)、「源範頼」(みなもとののりより)など、源義朝の子ども達は各地で生き延び、のちに平氏を倒して父祖の雪辱を果たすのです。