「源頼光」(みなもとのよりみつ)は、「清和源氏」(せいわげんじ)の血統を受け継ぐ、正統的な継承者です。武士でありながら、貴族に匹敵するほど、中央政府で高い地位を得て、武士の地位を向上させました。源頼光の活躍が、のちに鎌倉幕府初代将軍となる「源頼朝」(みなもとのよりとも)が行う武家政権の礎となったと言えるのです。武略に長け、鬼退治、妖怪退治などの武勇伝が多い、源頼光について、詳しくご紹介します。
「源頼光」は、948年(天歴2年)生まれ。平安時代中期に活躍した武将で、「らいこう」とも呼ばれています。
源頼光の曾祖父は、「清和天皇」(せいわてんのう)の第6皇子「貞純親王」(さだずみしんのう)です。祖父「源経基」(みなもとのつねもと)が、臣籍降下して源姓を賜り、「清和源氏」(せいわげんじ)の祖となりました。なお、祖父・源経基は、「藤原純友の乱」を鎮圧した功績が有名。
また、父「源満仲」(みなもとのみつなか)は、武士団を形成して、藤原摂関家の「藤原兼家」(ふじわらかねいえ)に仕えて、「武士」としての地位を獲得しました。摂津国(現在の大阪府北西部と兵庫県南東部)の多田に住んだので「摂津満仲」(せっつみつなか)と呼ばれ、子孫は「摂津源氏」、「多田源氏」と呼ばれるようになったのです。
源頼光は、文武に優れた人。特に、武略に長け、弓術や剣術を得意としていた逸話が数多く残されています。20歳前後で出仕し、22歳の970年(安和3年)に、但馬国(兵庫県北部)、伊予国(愛媛県)、摂津国の受領を歴任。38歳の986年(寛和2年)には、皇太子「居貞親王」(おきさだしんのう:のちの三条天皇。父は冷泉天皇[れいぜいてんのう]、母は藤原兼家の娘・超子[ちょうし/とおこ])が住む春宮坊(とうぐうぼう)に出仕し、20余年にわたって仕えました。居貞親王に命じられ、蟇目(ひきめ:穴の形がひきがえるに似ている的を傷付けない)の矢で狐を射った逸話が有名です。
春宮権大進(とうぐうのごんのだいしん)、権亮(ごんのすけ)、内蔵頭(うちくらのかみ)と出世。莫大な財力を築いたと言われ、40歳の988年(永延2年)には、摂政・藤原兼家が二条京極第(にじょうきょうごくてい)を新築した際に、馬30頭を献じています。また、44歳の992年(正暦3年)に備前守を任官。997年(長徳3年)に父・源満仲が亡くなると、その地位を受け継ぎ、摂関家を継いだ「藤原道長」(ふじわらみちなが)、「藤原頼通」(ふじわらのよりみち)父子に仕えて、中央政府での地位を確立したのです。53歳の1001年(長保3年)に美濃守を兼任し、左馬権頭(さまのかみ)となって正四位下となり、68歳の1016年(長和5年)には「後一条天皇」(ごいちじょうてんのう:父は「一条天皇」[いちじょうてんのう]、母は藤原道長の娘「藤原彰子」[ふじわらのしょうし])の即位に際して昇殿を許されました。70歳の1018年(寛仁2年)、藤原道長が土御門殿(つちみかどどの)を再建した際には、家具・調度いっさいを献上して人々を驚かし、1021年(寛仁5年)、74歳で死去したのです。
なお、源頼光の屋敷は、一条邸。藤原道長の異母兄「藤原道綱」(ふじわらのみちつな)を娘婿に迎え、自邸で同居していました。歌人としても優れ、「拾遺和歌集」(しゅういわかしゅう)以下の勅撰和歌集に、3首の和歌が入集しています。また、「頼光四天王」(らいこうしてんのう)と呼ばれる4人の優秀な家臣(渡辺綱[わたなべのつな]、坂田金時[さかたきんとき]、碓井貞光[うすいさだみつ]、卜部季武[うらべのすえたけ])を携えていたことも有名。源頼光と頼光四天王の逸話は「今昔物語集」にも登場しています。
源頼光が所持していた太刀として、いちばん有名なのは「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)です。平安時代後期、源頼光が、京都の大江山で「酒呑童子」(しゅてんどうじ)と呼ばれる鬼を退治したため、この名前が付けられました。元々は「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)が「鈴鹿御前」(すずかごぜん)との戦いで使用し、そのあと伊勢神宮(現在の三重県)に納められた太刀。源頼光が参拝した際に夢の中で託宣があり、伊勢神宮から下賜されたと伝えられています。
この太刀を作刀したのは「安綱」(やすつな)です。伯耆国(現在の鳥取県)で活躍した名工で、本太刀は安綱の最高傑作。地鉄は小板目肌で、地沸厚く付き、地斑交じって乱れたち、刃文は、小乱れに足が入り、金筋がかかっています。江戸時代の試し切りでは、六ツ胴(6体の死体を重ね斬りできた)を記録。すさまじい切味であることが証明されています。
刀剣ワールドでは、名刀・童子切安綱が書かれた浮世絵を所蔵しています。それは、「歌川国芳」(うたがわくによし) 作「大江山福寿酒盛」(おおえやまふくじゅさかもり)です。
京都の大江山には、酒呑童子という鬼がいて、都で財宝を盗み、姫をさらうので人々にとても恐れられていました。そこで、源頼光は帝から鬼退治を命じられます。武略に長けた源頼光は、酒好きな酒呑童子を訪ねて、毒酒を進呈しました。
画面左下にいるのが、源頼光です。早速、酒好きな酒呑童子は、大好きな酒を飲みたくて、子分達に声を掛け、宴会を開きました。そこで、源頼光は、酔ってつぶれた鬼達の首を、この太刀で次々と斬首。頼光四天王達とともに、大江山の鬼を絶滅させたと伝えられています。
本浮世絵を描いたのは、歌川国芳です。「初代歌川豊国」(しょだいうたがわとよくに)に師事し、武者絵やユーモアあふれる風刺画で人気絶大となりました。
源頼光の太刀として、次に有名なのが、「蜘蛛切」(くもきり)です。これは、元々は、源頼光の父、源満仲が源氏重代の刀として作らせた1振。当時、筑前国(福岡県西部)の三笠郡土山に住んでいた優秀な刀工に作らせたと伝えられていますが、その刀工は「長円」(ちょうえん)とする説もあれば、「助平」(すけひら)とする説、「真守」(さねもり)とする説など複数あり、はっきりとは分かっていません。その刀工は、2振を作刀。試し切りをしたところ、罪人の首から膝のあたりまで切れたので、1本は「膝丸」(ひざまる)、もう1本は罪人の髭まで切れたので「髭切」(ひげきり)と名付けられました。
ところが、源氏の嫡流・源頼光が、蜘蛛のような妖怪を退治。その勇ましさから、膝丸は「蜘蛛切」と改名されたのです。しかし、その蜘蛛切がやがて蛇のように終夜鳴くようになったので「吼丸」(ほえまる)と改名。さらに、「源義経」(みなもとのよしつね)が源氏の宝刀・吼丸を受け継いだことが嬉しくて、熊野の春山の景色から「薄緑」(うすみどり)と改名しました。薄緑は、「曽我兄弟」(そがきょうだい)が仇討ちの際に使用した太刀としても有名です。
なお、源氏重代の刀「薄緑」は、曽我兄弟が仇討ちをしたあと、源頼朝が召し上げ、行方不明となりました。ただし現在では、神奈川県の箱根神社と京都の大覚寺の2ヵ所に、「薄緑」と伝承される刀が存在しています。
刀剣ワールドでは、名刀・蜘蛛切が書かれた浮世絵を所蔵しています。それは、歌川国芳作「源頼光 四天王 土蜘蛛退治之図」(みなもとのよりみつ してんのう つちぐもたいじのず)です。これは土蜘蛛の妖怪に対して、源頼光が、名刀・蜘蛛切を向けて成敗しようとしているところ。土蜘蛛が非常に気味悪く、源頼光と頼光四天王の表情がとても勇ましく果敢です。
この土蜘蛛は、大和朝廷時代、天皇に従わなかったために討たれた豪族の怨念が妖怪になったものと伝えられています。一般的な逸話では蜘蛛ですが、「土蜘蛛」と表記されているところから、能の「土蜘蛛」、あるいは御伽草紙絵巻「土蜘蛛草紙」をもとに書かれた絵であることが分かるのです。
本浮世絵の作者は、江戸時代末期に活躍した歌川国芳。磊落(らいらく:度量が広い)な性格で、70人以上の弟子を持ち、武者絵、役者絵、花鳥画、戯画、風刺画を得意としました。