明治時代の重要用語

民撰議院設立の建白書 
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「民撰議院設立の建白書」(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)とは、1874年(明治7年)1月、「明治六年の政変」で明治政府を去った「板垣退助」(いたがきたいすけ)・「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)ら8人が、「大久保利通」(おおくぼとしみち)達の現政府を専制的であると批判し、立法の詰問機関「左院」(さいん)に「国会を開き民意を政治に反映させることが大切である」と議会の開設を提言した画期的な建白書(けんぱくしょ:意見を記した書状)です。「民撰」とは「選挙で選ばれた議員」のことで、これ以後、国民の参政権を確立することを目指した「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう)が急速に広まっていきました。

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「民撰議院設立の建白書」(みんせんぎいんせつりつのけんぱくしょ)とは、1874年(明治7年)1月、「明治六年の政変」で明治政府を去った「板垣退助」(いたがきたいすけ)・「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)ら8人が、「大久保利通」(おおくぼとしみち)達の現政府を専制的であると批判し、立法の詰問機関「左院」(さいん)に「国会を開き民意を政治に反映させることが大切である」と議会の開設を提言した画期的な建白書(けんぱくしょ:意見を記した書状)です。「民撰」とは「選挙で選ばれた議員」のことで、これ以後、国民の参政権を確立することを目指した「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう)が急速に広まっていきました。

民撰議院設立の建白書の背景

征韓論と明治六年の政変

民撰議院設立の建白書は、「明治六年の政変」が大きく影響しています。

明治六年の政変とは、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)との国交樹立を早急かつ強硬に推し進めるべきという「征韓論」(せいかんろん)を巡って、明治政府首脳が分裂し、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)・板垣退助・後藤象二郎・「副島種臣」(そえじまたねおみ)・「江藤新平」(えとうしんぺい)といった征韓論を主張した明治政府高官がいっせいに辞職した出来事です。

後藤象二郎

後藤象二郎

江藤新平

江藤新平

1871年(明治4年)11月から約1年10ヵ月、「岩倉具視」(いわくらともみ)・「木戸孝允」(きどたかよし)・大久保利通・「伊藤博文」(いとうひろぶみ)ら明治政府の主要人物が、「岩倉使節団」として海外視察に赴いていた間、西郷隆盛・板垣退助・「大隈重信」(おおくましげのぶ)・江藤新平らの「留守政府」(るすせいふ)が、西郷隆盛を李氏朝鮮へ派遣して開国を迫ることを閣議決定。

この交渉がうまくいかない場合は、「派兵もやむなし」という固い決意のもとでした。そこには、近隣のアジア諸国とともに欧米列強に対抗できる力を付けようという考えがあったのです。

閣議決定された内容は、当時の明治政府のトップ、太政大臣の「三条実美」(さんじょうさねとみ)によって122代「明治天皇」(めいじてんのう)に上奏(天皇へ意見を申し上げること)。明治天皇もいったんはその決定を認可。

しかし、岩倉使節団より先に帰国した大久保利通・木戸孝允が、「内治優先論」(ないちゆうせんろん:国内政治の整備が先という意見)を主張。さらに岩倉使節団が帰国すると、岩倉具視も断固として征韓論に反対。

大久保利通も岩倉具視と同じ立場を示すと、明治政府内では、連日にわたり西郷隆盛・板垣退助を筆頭とする征韓論側と、岩倉具視・大久保利通を筆頭とする征韓論反対派との間で、非常に激しい議論が繰り広げられたのです。

岩倉具視

岩倉具視

木戸孝允

木戸孝允

大久保利通

大久保利通

伊藤博文

伊藤博文

その後、征韓論に肯定的だった三条実美が、過労で倒れたことにより、代わって太政大臣の役割を岩倉具視が担うことに。そして、大久保利通・伊藤博文らとともに、岩倉具視が明治天皇に閣議決定を裁可しないように求めたため、結果的に征韓論は封じ込められてしまったのです。

西郷隆盛・板垣退助達は、合議を無視した専制的な姿勢だと批判し、西郷隆盛は抗議の意味を込めて即座に辞表を提出。これに続き、征韓論派がいっせいに辞職する事態となりました。これが「明治六年の政変」と呼ばれるものです。

その後、西郷隆盛は鹿児島へ帰郷し、私学校を開き子弟の教育にあたったのち、「西南戦争」(せいなんせんそう)を起こすこととなります。

一方の板垣退助達は、一部の政治家によって独占された明治政府の専制政治を批判し、民撰議院設立の建白書を明治政府へ提出することとなるのです。

民撰議院設立の建白書の概要

愛国公党によって作成され提出

民撰議院設立の建白書は、「民撰議院」(みんせんぎいん)の設立、つまりは国会開設を求めた建白書で、1874年(明治7年)1月17日に、立法の詰問機関・左院へ提出されました。

前参議(さんぎ:政府最高機関の太政官[だじょうかん]の役職)の板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・前東京府知事(とうきょうふちじ:東京都知事に相当)の「由利公正」(ゆりきみまさ)・前大蔵大丞(おおくらたいじょう:大蔵省の4番目の役職)の「岡本健三郎」(おかもとけんざぶろう)、そして起草者である「古沢滋」(ふるさわしげる)・「小室信夫」(こむろしのぶ)の8名が署名。

また8名は、民撰議院設立の建白書の提出に先立ち、同年1月12日に、「愛国公党」(あいこくこうとう)という日本初の政党を結成。この愛国公党のメンバーによって、民撰議院設立の建白書が提出されたのです。

日刊新聞「日新真事誌」が特報として掲載

民撰議院設立の建白書が提出された翌日の1月18日、日刊新聞「日新真事誌」(にっしんしんじし)が、特報としていち早く掲載。日新真事誌は、イギリス人の「ジョン・ブラック」が1872年(明治5年)に東京で創刊した新聞です。

この新聞記事により、民撰議院設立の建白書が世の中へ知れ渡り、民撰議院設立の時期などを巡り論争が展開。のちの、自由民権運動への大きな契機となったのです。

民撰議員設立の建白書の内容

では、「民撰議院設立の建白書」は、具体的にどのような内容だったのでしょうか。

もともと板垣退助達は、旧薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)・長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)出身のごく一部の人間が動かしている現政府体制を批判し、国民が選んだ議員による国会の開設を求めていました。

しかし、この建白書の内容からは単なる明治政府批判を超えて、板垣退助達の日本を良き国にしたいという熱い思いが、その文言の端々から伝わってきます。その内容の一部を訳文で紹介しましょう。

  • 現在、政権の所在を考えると皇室・人民にはなく、上級官僚のみにある。
  • 政令が非常に多く出され、頻繁に改正され定まらず、政治・刑罰が私情で行われ、賞罰も好き嫌いで決められている。
  • 言論発表の場所がなく、苦しみを告げることもできない。
  • 私達は愛国の気持ちを止めることができず、この状況を救う道を考えてみたが、公議世論を尊重するための民撰議院の設立しかない。すなわち上級官僚の権限を制限してこそ、皇室・人民ともに、幸福を受けることができるものである。

民撰議院設立の建白書のその後

自由民権運動の高まりへ

民撰議院設立の建白書自体は、結果的に明治政府に受け入れられることのないままに終わりました。

愛国公党も江藤新平が、民撰議員設立の建白書の提出から間もない1874年(明治7年)2月に、明治政府に対する最初の士族反乱「佐賀の乱」の首謀者として処刑され、また板垣退助が土佐(とさ:現在の高知県高知市)へ帰郷したことなどもあり、1874年(明治7年)8月には自然消滅しています。

江藤新平は佐賀(さが:現在の佐賀県佐賀市)へ帰省した際、士族反乱に巻き込まれてしまったとも言われており、留守政府の一員として日本の近代化の礎を築いた人物の最後としてはとてもあっけないものでした。

一方、板垣退助は、故郷の土佐で「立志社」(りっししゃ)という政治結社をつくり、これを母体に「愛国社」(あいこくしゃ)という全国組織を結成。この愛国社が全国的な国会開設運動の中心となっていきます。

そして、紆余曲折を経て、1890年(明治23年)、「第1回帝国議会」(日本初の国会)が開催。民撰議院設立の建白書が、その発端となったことは確かです。

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