安土桃山時代後半、天下を統一した「豊臣秀吉」は、1594年(文禄3年)に政治の拠点として「伏見城」(ふしみじょう:京都府京都市)を築きます。伏見城は、江戸時代に取り壊されて跡地に桃の木が植えられ、桃の花見の名所となりました。以降、人々はこの場所を「桃山」と呼ぶようになります。そのため、豊臣秀吉が活躍した安土桃山時代に興った絢爛豪華な文化を「桃山文化」(ももやまぶんか)と呼ぶようになったのです。一方、同時期にヨーロッパから伝えられた「南蛮文化」(なんばんぶんか)も隆盛でした。桃山文化と南蛮文化の違いから、桃山文化の特徴と具体的な事例を紹介します。
中世(平安~室町時代)の日本では、時代ごとに様々な文化が花開きましたが、そのどれもが仏教の影響を受けていました。
しかし、室町時代末期の1549年(天文18年)に「フランシスコ・ザビエル」が来日してキリスト教が伝えられ、さらにスペイン・ポルトガルとの交易が始まると、日本へヨーロッパ文化がもたらされるようになります。
これにより、仏教の影響から解放され、キリスト教・天文学・西洋医学・航海術・活版印刷技術などの学問・技術が一気に日本に流入。こうして開花したのが「南蛮文化」です。南蛮文化は1612年(慶長17年)にキリスト教の禁止令が出されるまで続きました。
一方、「織田信長」(おだのぶなが)が1573年(天正元年)に室町幕府15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を追放したことで、約1世紀に及んだ戦乱が収まり、富と権力を集中した統一政権のもとで各地の経済・文化交流が盛んになります。
また、同時期に発生した南蛮文化の影響によって新鮮味あふれる豪華な文化が誕生。さらに、これまで日本国内の文化形成に多大な影響を与えてきた仏教勢力が、織田信長・豊臣秀吉によって弱められ、写実的な絵画が数多く作られるようになったのです。
この桃山文化は、1615年(元和元年)に豊臣家が「徳川家康」(とくがわいえやす)に滅ぼされるまで続きました。
桃山文化を象徴するのが「城郭建築」です。平和な時代になると、城は以前のような戦闘・防御に特化した簡素な構造ではなく、城主の財力・権威を示すために内装・外観は競うように豪華になっていきました。
記録によれば、織田信長が手がけた「安土城」(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)は地上6階地下1階、最上階は金色、その下階は朱色の八角堂となっており、室内には豪華絢爛の障壁画(しょうへきが:襖[ふすま]や、衝立[ついたて]などに描かれた絵画)が飾られていたとされます。
しかし、残念なことに1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」(ほんのうじのへん)のあとに、すべて焼失してしまいました。
桃山建築の姿を今に伝えるのが「姫路城」(ひめじじょう:兵庫県姫路市)です。地上6階・地下1階の大天守と3つの小天守による連立式天守の複雑な構造を持ち、全体が漆喰で塗られた優美な姿。別名「白鷺城」(しらさぎじょう)と呼ばれ、国宝及びユネスコ世界文化遺産にも指定されています。
この時期には、城だけでなく寺院でも、その権力を誇示するために庭園が発展。
例えば「醍醐寺」(だいごじ:京都府京都市)の「三宝院庭園」(さんぽういんていえん)は、豊臣秀吉が自ら基本設計を行った「池泉回遊式」(ちせんかいゆうしき:池の周囲を回って庭園を鑑賞する形状)の庭園です。その細部に、豊臣秀吉のこだわりが息づいていると伝えられます。
また、「二条城」(にじょうじょう:京都府京都市)の「二の丸庭園」(にのまるていえん)は、茶人・武将でもあった「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)の代表作。中央の複雑な形状の大池には3つの島が配されるなど凝った構造になっており、「神仙蓬莱」(しんせんほうらい:古代中国の思想で、不老不死の仙人が住む世界)を表現していると言われます。
絵画において、桃山文化を代表する絵師が「狩野永徳」(かのうえいとく)。豊かな色彩と力強い線、雄大な構図の障壁画が残されています。特に安土城天守閣には狩野永徳が多くの障壁画を描いたことが分かっていますが、いずれも焼失しており今に伝わっていません。
このように、日本絵画史上で最も重要な人物であるにもかかわらず、実は今日に残る作品は少ないのです。「唐獅子図屏風」(からじしずびょうぶ)など、現存している作品は国宝・重要文化財として豪華な桃山文化を今に伝えています。
陶磁器は茶の湯の流行とともに茶器として隆盛となりました。それまでの茶器が「唐物」(からもの:中国から輸入された物)であったのに対し、この時期には国内各地でそれぞれ工夫を凝らした茶器が多数生産。
なかでも、岐阜県土岐市・多治見市を中心に作られた「美濃窯」(みのがま)の発展は著しく、茶人・武将でもあった「古田織部」(ふるたおりべ:千利休の弟子)が好んで作らせた「織部焼」は、あえて形状を歪ませ、筆で絵付けをするという、当時としては画期的な手法で世間の注目を集めました。
庶民の娯楽としては、「出雲大社」(いずもたいしゃ:島根県出雲市)の巫女と伝えられる「出雲阿国」(いずものおくに)が、京都の市場河原で始めた「かぶき踊り」があります。
これは女性である出雲阿国が男装して日本刀を差し、首から鏡、あるいはキリスト教のロザリオをぶら下げ、謡(うた)いながら笛・鼓に合わせて官能的に踊るというもの。
この奇抜な踊りに京都の人々は熱狂し、やがて伏見城や・大宮御所(おおみやごしょ:皇太后[こうたいごう:前天皇の正妻]が暮らす御所)に招かれて踊りを披露したほどでした。このかぶき踊りが、江戸時代になって「歌舞伎」へと発展していったのです。
【東京国立博物館「研究情報アーカイブズ」より】
- 友信「南蛮屏風(左隻)」