明治時代の重要用語

森鴎外 
/ホームメイト

2022年(令和4年)に没後100年を迎えた「森鴎外」(もりおうがい)は、「夏目漱石」(なつめそうせき)と並び称される明治時代の文豪です。代々医師を家業とする家に生まれた森鴎外は、幼少時から神童と呼ばれるほどの秀才で、軍医のトップにまで登りつめ、作家としても一流の仕事を成し遂げた超エリート。代表作の「舞姫」(まいひめ)、「山椒大夫」(さんしょうだゆう)などは、現在でも教科書でおなじみの作品です。森鴎外は官僚・医師・文学者としての活動を生涯にわたって続けました。これだけ多くの業績を成し遂げられたのは、森鴎外の睡眠時間が極めて短い体質であったことも一因。不世出の天才、森鴎外の人物像について紹介します。

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2022年(令和4年)に没後100年を迎えた「森鴎外」(もりおうがい)は、「夏目漱石」(なつめそうせき)と並び称される明治時代の文豪です。代々医師を家業とする家に生まれた森鴎外は、幼少時から神童と呼ばれるほどの秀才で、軍医のトップにまで登りつめ、作家としても一流の仕事を成し遂げた超エリート。代表作の「舞姫」(まいひめ)、「山椒大夫」(さんしょうだゆう)などは、現在でも教科書でおなじみの作品です。森鴎外は官僚・医師・文学者としての活動を生涯にわたって続けました。これだけ多くの業績を成し遂げられたのは、森鴎外の睡眠時間が極めて短い体質であったことも一因。不世出の天才、森鴎外の人物像について紹介します。

森鴎外の生涯

年齢を多く偽り医学校へ

森鴎外生家

森鴎外生家

森鴎外は小説を書く上での筆名で、本名は「森林太郎」(もりりんたろう)。1862年(文久2年)、医師の「森静男」(もりしずお)の長男として、津和野藩(つわのはん:現在の島根県鹿足郡津和野町)で生まれました。

森家は歴代、津和野藩の御殿医(ごてんい:藩主に召し抱えられた医師)を務めており、森鴎外も生まれたときから医師になることが運命付けられていたのです。

そんな森鴎外は、5歳で論語(ろんご:中国の思想家・孔子の言行録)を読み、7歳で津和野藩校へ入学。その秀才ぶりは群を抜いていました。「廃藩置県」(はいはんちけん:全国の藩制度を廃し府県を置くこと)が発布されて1年後の1872年(明治5年)、10歳の森鴎外は父・森静男とともに上京。年齢を2歳多く偽って、「東京医学校予科」(とうきょういがっこうよか:現在の東京大学医学部の前身)に合格します。

その後、15歳で「東京医学校本科」(とうきょういがっこうほんか:現在の東京大学医学部の前身)へ入学し、19歳で卒業。1881年(明治14年)、陸軍省へ入省し軍医となりました。

軍医として小説家として

森鴎外は22歳からの4年間、衛生学(えいせいがく:病気予防・健康維持を目的とした医学)研究のため、ドイツへ留学しました。当時の最先端医学を学ぶかたわら、のちの創作活動に影響を与えるヨーロッパ文化・芸術に親しみました。このときの体験が、名作・舞姫のベースになったとされます。

帰国後は、「陸軍軍医学校」(りくぐんぐんいがっこう:軍医を育成する教育機関)、「陸軍大学校」(りくぐんだいがっこう:陸軍の幹部職を育成する教育機関)の教官を歴任。並行して、1890年(明治23年)から作家活動をスタートさせました。小説の他、デンマークの童話作家「アンデルセン」の「即興詩人」(そっきょうしじん)などの翻訳や、詩歌・戯曲など多くの著作を発表。「日清戦争」、「日露戦争」では軍医として出征しますが、戦場でも時間を見つけては、読書・詩作に没頭しました。45歳のときには、軍医の最高位である陸軍軍医総監に就任。

1915年(大正4年)、35年間務めた陸軍を53歳で退役したあとは、執筆・文化活動に専念。主に歴史小説・伝記などを発表する一方、1917年(大正6年)から亡くなるまで、「帝室博物館」(ていしつはくぶつかん:現在の東京国立博物館)の総長(館長)を務めました。

これだけ多彩な業績を残した背景には、森鴎外が短い睡眠時間でも健康を維持できる体質であったからとされます。森鴎外は、日頃から「人間は2時間寝れば十分」が口癖でした。

そして1922年(大正11年)、60歳で死去。父・森静男とともに上京してから二度と故郷の地を踏むことはありませんでしたが、「私は石見(いわみ:島根県西部地域を指す)の森林太郎として死にたい」と遺言しています。

森鴎外の作品

舞姫

舞姫は、1890年(明治23年)、「鴎外」の筆名で文壇デビューした、森鴎外の初作品。舞台は19世紀末のドイツ。留学中の官僚・太田豊太郎が、踊り子・エリスと恋に落ちて離別し、日本へ帰国するまで、太田豊太郎の心の変遷を追いながら描かれています。エリスのモデルは、実際に森鴎外が留学中に出会い、帰国した森鴎外を追って来日した「エリーゼ・ヴィーゲルト」という実在の女性。森鴎外との恋が終わったあとも、生涯文通が続きました。

山椒大夫

山椒大夫(さんしょうだゆう)は、平安時代を舞台に、人買いにさらわれた幼い姉弟の過酷な運命を描いた歴史小説。山椒大夫とは冷酷な人買いの名前で、主人公の名は姉の安寿(あんじゅ)と弟の厨子王(ずしおう)です。母と引き離され、山椒大夫の手に渡った姉弟。姉・安寿は自分の身を犠牲にして、弟・厨子王を逃がしました。それから長い年月が経ち、弟・厨子王は年老いた母と再会を果たします。

高瀬舟

「高瀬舟」(たかせぶね)は、弟殺しの罪で島流しにされる喜助と、護送係の役人による、歴史小説。2人を乗せた高瀬舟の船上で、喜助が身の上話を語ります。弟との暮らしは貧乏のどん底で、しかも弟は助かる見込みのない病。足手まといにならないよう、自ら喉を切った弟が死に切れず苦しむのを見て、喜助は思わず手にかけました。歴史小説とはいえ、貧困・安楽死などの社会問題は現在にも通じ、医師であった森鴎外の葛藤が垣間見えます。

森鴎外の逸話

妻と母の不仲に悩む

森鴎外は人生で2度結婚しました。最初の妻「登志子」(としこ)との間に長男をもうけますが、わずか1年半で離婚。のちに、18歳年下の妻「志げ」(しげ)と再婚したものの、森鴎外の母との折り合いが悪く、森鴎外は2人の間で終始悩まされました。

森鴎外は気晴らしになればと思い、妻・志げに小説を書くよう勧めます。妻・志げが、森鴎外との生活、自身の体験を書き、森鴎外が校閲(内容の誤りなどをチェックすること)を担当。2人の共同作業で執筆は進み、妻・志げの作品は雑誌にも掲載されました。

また、森鴎外には、嫁姑問題を扱った作品もあるため、長年の嫁姑問題が創作活動の糧になったという見方もされています。

子に洋風の名前を付ける

森鴎外には5人の子どもがいました。「於菟」(おと)・「茉莉」(まり)・「杏奴」(あんぬ)・「不律」(ふりつ)・「類」(るい)と、当時としてはかなり斬新な名前ばかり。森鴎外はドイツ留学の経験から、いずれ日本も国際社会になると考え、欧米でも通じる洋風の名前を付けたのです。

また、森鴎外の孫達も、「真章」(まくす)・「常治」(じょうじ)・「樊須」(はんす)など、洋風の名前を継承。さらに、子や孫の多くがその後医師や・作家の道へ進み、森鴎外の職業もしっかり受け継がれています。

卓越した語学力

森鴎外は翻訳者でもあり、「森鴎外全集」の半分近くを西洋文学の翻訳作品が占めています。東京医学校ではドイツ語で授業を受け、4年間のドイツ留学中に原書を400冊以上読破。

森鴎外のドイツ語はドイツ人と変わらぬほどとされ、卓越した語学力を活かして、ドイツ作家「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」の大作、「ファウスト」をわずか半年で翻訳しています。また、森鴎外は漢文にも優れ、漢方医の本も原文で読みこなしました。

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