紀州藩(きしゅうはん:現在の和歌山県和歌山市)藩士として生まれた「陸奥宗光」(むつむねみつ)は、15歳で江戸へ出て、幕末の志士(しし:高い志を持つ武士)である「坂本龍馬」の右腕として「海援隊」(かいえんたい)などで活躍しました。明治維新後は「伊藤博文」(いとうひろぶみ)の勧めでヨーロッパに渡り、近代民主主義の在り方を学び、外交官としての基礎を身に付けました。第2次伊藤博文内閣で外務大臣に就任した陸奥宗光の最も大きな仕事は、旧江戸幕府が諸外国との間に結んだ不平等条約の改正です。それまで多くの政府要人が果たせずにいた、この改正交渉を成功させたことで、のちに陸奥宗光は「日本外交の父」と呼ばれるようになりました。
陸奥宗光は、1844年(弘化元年)に生まれます。父は紀州藩の武士であり国学者としても名を成した「伊達宗広」(だてむねひろ)で、紀州藩の重臣でありながら「尊王攘夷思想」(そんのうじょういしそう:天皇を尊び、外国人を排斥しようとする運動)を主導していた人物。
そのため陸奥宗光が8歳のとき、父親は危険思想を広めた罪に問われ失脚。そのあと、一家は困窮を極めることになりました。
父・伊達宗広の影響を受けて尊王攘夷思想を持つようになった陸奥宗光は、15歳で江戸へ出ます。そこで、尊王攘夷派の坂本龍馬をはじめ、「桂小五郎」(かつらこごろう)、伊藤博文らと出会いました。1863年(文久3年)、陸奥宗光は坂本龍馬に誘われ、「勝海舟」(かつかいしゅう)が設立した「神戸海軍操練所」(こうべかいぐんそうれんじょ)に入所。
さらに、坂本龍馬の海援隊に加わり、名字を伊達から陸奥に変え、坂本龍馬の右腕として活躍します。坂本龍馬は陸奥宗光を高く評価し、「自分と陸奥だけは武士を辞めても十分生きていける」と語ったとされます。
明治維新後、不平士族(旧武士層)と明治政府軍による「西南戦争」(せいなんせんそう)の際に、陸奥宗光と反政府側との関係が明るみに出て、刑務所へ服役。出所後に、伊藤博文の勧めで3年間ヨーロッパへ留学するという紆余曲折をたどった末に外務省に入省し、そこから外交官として実績を積み上げていきます。
明治時代初め、日本の大きな課題のひとつは、旧江戸幕府が欧米諸国と結んだ不平等な条約を改正することでした。
例えばこれらの不平等条約下では、日本に滞在中の外国人が罪を犯しても日本の法律で裁くことができない「治外法権」(ちがいほうけん)が設定されていたり、輸入品にかける税率を自主的に決める「関税自主権」が日本側になかったりと、日本を対等な独立国家としてみなしていませんでした。
ヨーロッパ留学で民主政治の仕組み、運営方法をつぶさに研究した陸奥宗光にとって、これらの不平等条約を撤廃し、欧米諸国と対等な関係を築くことは悲願でした。陸奥宗光は、1888年(明治21年)に駐米公使兼メキシコ合衆国公使に就任すると、メキシコとの間に「日墨修好通商条約」(にちぼくしゅうこうつうしょうじょうやく)を締結。
この条約は、日本が諸外国と対等な立場で結んだ最初の条約となりました。そして1892年(明治25年)、第2次伊藤博文内閣の外務大臣に就任した陸奥宗光は、5年後に日本国内での行動を自由にすることを交換条件として、イギリスの治外法権を撤廃。
これを皮切りに、アメリカ・イタリアなど全部で15ヵ国との条約改正にこぎつけ、関税自主権の回復は一部にとどまったものの、治外法権についてはすべて撤廃することができました。こうして日本の独立国家としての基盤をつくった陸奥宗光は、のちに「日本外交の父」と言われるようになります。
陸奥宗光の外交官としての手腕は、1894年(明治27年)に勃発した清(17~20世紀初頭の中国王朝)との「日清戦争」(にっしんせんそう)における戦後処理でも発揮。もともと陸奥宗光は対清強硬派で、戦況が日本有利と見るや、外務大臣として当時の総理大臣・伊藤博文とともに清との終戦交渉に臨み、日本に有利な講和条件を勝ち取りました。
しかしその直後、ロシア帝国・フランス・ドイツの3ヵ国が、日本が清より譲り受けた「遼東半島」(りょうとうはんとう:中国東北地方にある半島)は、清へ返還するべきだと異議を唱えてきます(三国干渉問題)。
これに対し日本国内の世論は猛反発をしますが、このままロシア帝国との戦争に突入すれば、日本に勝ち目はないと判断した陸奥宗光は、遼東半島の返還を決断。この一件が解決すると間もなく、陸奥宗光は結核のため54歳の若さで亡くなります。日本がロシア帝国と戦争をすることになるのは、陸奥宗光の死から7年が経過した1904年(明治37年)のことでした。