「南蛮貿易」(なんばんぼうえき)とは、16世紀後半に日本とポルトガル・スペインとの間で行われた貿易のこと。当時の日本は戦国時代で、大名達は鉄砲や弾薬などをこぞって買い求めました。他にも生糸、絹織物をはじめ多くの物品が日本にもたらされています。しかし、ポルトガル船は物品とともにキリスト教の宣教師を日本に連れてきたため、やがて豊臣秀吉と敵対。そして、キリスト教を禁じた江戸時代に「島原の乱」(しまばらのらん)が起こります。その結果ポルトガル船の来航が禁止され、南蛮貿易は終わりを告げました。
1543年(天文12年)8月25日、種子島の西之浦に明(みん:当時の中国王朝)の船が漂着。このとき、乗船していたポルトガル人によって日本に鉄砲が伝わったとされます。そして、これがきっかけとなってポルトガル人が頻繁に日本に来航するようになりました。
こうして始まった貿易を「南蛮貿易」と呼びます。「南蛮」とは、中国の中華思想に由来する言葉で、本来は東南アジアの人々を軽蔑して用いる呼称でした。しかし、のちにインド洋から南シナ海を経由して中国に来航するヨーロッパ人全体を意味するようになり、日本も同様にヨーロッパ人のことを南蛮人と呼んだのです。
明船が漂着したとき、種子島の領主「種子島時堯」(たねがしまときたか)は鉄砲を2挺購入。1挺は将軍に献上し、1挺は分解して研究し、すぐに国産化に成功しています。この鉄砲は「種子島銃」(たねがしまじゅう)と呼ばれ、またたく間に堺(さかい:大阪府)や根来・雑賀(ねごろ・さいか:和歌山県)、国友(くにとも:滋賀県)などの職人によって量産化されるようになり、全国の戦国大名が鉄砲を求めました。
しかし、銃の本体は国内で生産できても、火薬の原料である硝石(しょうせき)と、銃弾となる鉛を日本で手に入れることは難しかったため、戦国大名は南蛮貿易に頼るしかなかったのです。
日本で南蛮貿易を担っていたのは、長崎・平戸(ながさき・ひらど:長崎県)や府内(ふない:大分県)、坊津(ぼうのつ:鹿児島県)といった九州の港に住む商人や、京都や博多(はかた:福岡県)、堺(さかい:大阪府)などの商人達。彼らは戦国大名に硝石や鉛を売り、大きな利益を上げました。
しかし南蛮貿易で日本が最も輸入したのは武器ではなく、当時の日本で需要が高まっていた生糸や絹織物、撚糸(ねんし:生糸をよりあわせて強度を高めた物)、陶器などでした。日本からも漆器(しっき:木や紙などに漆[うるし]を塗り重ねた工芸品)や屏風などが輸出されましたが、それらはほんの一部に過ぎません。この頃の日本は「石見銀山」(いわみぎんざん:島根県大田市)をはじめ良質な銀鉱山を数多く有する、世界有数の銀産出国。当時、世界で流通する銀の3分の1が日本で産出したと言われます。
日本は多くの輸入品の対価を銀で支払ったため、ポルトガル船は大量の銀を獲得し、中国に持ち込んで莫大な利益を獲得。ポルトガル人の間では、日本との交易船を「nau das pratas」(銀の船)と呼んだほどでした。
当時、世界は「大航海時代」(だいこうかいじだい:西ヨーロッパの国々が世界へと探検航海に出かけ、通商を行った時代)にありました。
そのリーダーはポルトガルとスペインです。両国は「トルデシリャス条約」によって世界を勝手に二分しており、アジア地域はポルトガルの担当とされていました。
しかし日本との貿易にうまみを感じたスペインも、1584年(天正12年)にノビスパン(現在のメキシコ)を経由して太平洋まわりで来日し、南蛮貿易を開始しています。
「織田信長」と「豊臣秀吉」は南蛮貿易を積極的に利用しました。特に織田信長は国内に出回る硝石の流通を押さえており、これが織田軍の強さの理由であったといわれます。しかし、やがて豊臣秀吉は危機感を抱くようになりました。南蛮船で来日した宣教師が各地でキリスト教の布教を行い、農民の間でキリスト教信者が増え始めたのです。キリスト教の「神の前に人はみな平等である」という考え方は、武力で国を支配する戦国大名にとって都合が悪いものでした。
そしてキリシタン大名(キリスト教信者となった大名)の「大村純忠」(おおむらすみただ)が、長崎をイエズス会(カトリック教会の組織)に寄付したことを知った豊臣秀吉は、ついにバテレン(宣教師)追放令を発令します。ところがキリスト教を追放しても火薬と銃弾は必要であったため、南蛮貿易までは禁止できませんでした。しかし1585年(天正13年)、天下統一を果たした豊臣秀吉は「惣無事令」(そうぶじれい:大名間の私戦を禁じる法令)を発令。すると鉄砲は不要となり、武器輸入の窓口としての南蛮貿易の重要性は失われていきました。
豊臣秀吉に代わって天下を統一した「徳川家康」も、当初は経済力・軍事力を確保するために南蛮貿易には積極的でした。京都の商人「田中勝介」(たなかしょうすけ)をノビスパンに派遣してスペインとの貿易交渉を行っています。しかしポルトガルもスペインも「カトリック」(ローマ教皇を最高指導者とするキリスト教最大の教派。旧教)の宣教師と一体となって活動したため、徳川家康としても困っていたのが実状でした。
1600年(慶長5年)、オランダ船のリーフデ号が日本に漂着すると、徳川家康は乗組員を江戸に招いて面談し、オランダに通商の許可を与えます。実はオランダは「プロテスタント」(カトリックから分かれた、聖書を重視する教派。新教)を信仰しており、貿易と宗教を切り離して活動していたためでした。
その後もポルトガルとスペインは南蛮貿易を通じた布教をやめませんでした。幕府は貿易の管理を強化するため、1616年(元和2年)に貿易を行える港を長崎と平戸に限定。1624年(寛永元年)にはスペイン船の来航を禁止し、1636年(寛永13年)には長崎に「出島」(でじま)を建設。そこにポルトガル人を住まわせて貿易管理を徹底します。
しかし、その翌年の1637年(寛永14年)、長崎県南西部のキリシタンによる大規模な一揆、「島原の乱」(しまばらのらん)が発生。その背後にポルトガル商人がいると考えた幕府は、ポルトガル船の来航を全面的に禁止し、通商国をオランダに限定します。これにより、スペイン・ポルトガルとの間で行われた南蛮貿易は80余年の幕を下ろすことになりました。