江戸時代後期、現在の長崎県長崎市鳴滝に「鳴滝塾」(なるたきじゅく)と名付けられた私塾があり、全国から医師を目指す若者達が集まってきていました。この塾の創始者が、オランダ商館の医師として来日したドイツ人医師「シーボルト」。シーボルトは、豊富な医療知識と優れた人間性で長崎の人々の信頼を集め、出島(でじま:鎖国中の日本で唯一、外国人の居住が許された人工島)からの外出が許されていたと言われています。鳴滝塾で、シーボルトは日本人患者の治療を行うかたわら、多くの塾生に西洋の医学・蘭学(らんがく)を教え、自身も鳴滝塾の中に設けた研究室で日本に関する研究を深めていました。
シーボルトが生まれたのは1796年。南ドイツのヴュルツブルクで代々著名な医学者を生んだ名家の出身。シーボルト自身は医師を目指す一方、動植物学・民族学など幅広い分野に高い関心を持っていました。
大学卒業後は医師として開業しますが、江戸時代初期に来日したドイツ人「エンゲルベルト・ケンペル」の著書を読み、日本に興味を持ち始めます。そして日本に渡航するため、オランダ陸軍軍医に転身し1823年(文政6年)、ついにオランダ商館の医師として来日を果たしたのです。
鎖国政策を取っていた当時の日本では、外国人が来日しても自由に出歩くことを禁じられていました。シーボルトも最初は出島に閉じ込められたような生活を送ります。
そんななか、出島で密かにシーボルトから医学を学んでいたのが、「吉雄権之助」(よしおごんのすけ)、「吉雄幸載」(よしおこうさい)などの「通詞」(つうじ:外国語の通訳をする役人)。
彼らはこの優れた医師の講義を、ぜひ他の日本人にも受けさせたいと考えます。そこで、シーボルトが薬草採取のため出島を出る限られた機会を利用し、吉雄幸載の自宅で臨時の診療所を開始。シーボルトは、見学者の前で蘭方の診察方法・手術の仕方を見せ、質問にも丁寧に答えました。
「出島にシーボルトという名医がいる」という評判は瞬く間に広がり、長崎奉行(ぶぎょう:幕府直轄領の領主)「高橋重賢」(たかはししげかた)の耳にも入ります。
高橋重賢は、日本人の学者がシーボルトに学ぶために出島に入ることを許可。1824年(文政7年)には、江戸幕府より出島の外で鳴滝塾開設の認可が下ります。日本人と外国人が接触することが厳しく制限されていた当時では、考えられないことでした。
長崎郊外の鳴滝に開かれた鳴滝塾の敷地は広く、シーボルトが使う2階建ての母屋は、床張りにガラス障子を入れた洋風の設え。隣の大きな平屋も洋風にして、診察室・手術室・教室などに利用しました。塾生達のために宿舎・炊事場などもあり、邸内の庭では、シーボルトの研究対象である草木を栽培。
やがて、九州各地の諸藩からも診療依頼が舞い込むようになりますが、シーボルトは貧しい農民もすべて分け隔てなく診療し、塾生達はその様子を間近で見て、診療方法を学びました。
塾生のなかには、「湊長安」(みなとちょうあん)のようにすでに蘭方医として活躍している人物、各地の藩主から派遣されたお抱え医師などもいて、最新の医学知識から、病人食の献立・調理法、薬草から薬を作る方法など、幅広く学んでいたと言われています。
シーボルトにとっても、優秀な塾生達に日本研究の手伝いをしてもらうことができ、深い師弟関係が築かれたのです。
1828年(文政11年)、5年の任期を終えて帰国するはずだったシーボルトですが、その直前、荷物の中から国外への持ち出しが禁じられていた日本地図が見つかります。シーボルトと多くの関係者が厳しい取り調べを受け、シーボルトは国外追放となり、鳴滝塾も解散させられてしまいました(シーボルト事件)。
その後、シーボルトはドイツで、日本についての詳細な研究書を著作。一方、鳴滝塾で学んだ塾生達の多くが蘭方医として成功し、江戸幕府将軍の「侍医」(じい:健康を管理する専任の医師)に上り詰めた人もいました。
また、シーボルトが帰国する際、2歳だったシーボルトの娘・「楠本イネ」(くすもといね)は、シーボルトが最も信頼した塾生「二宮敬作」(にのみやけいさく)から医学を学び、日本人初の女性医師として活躍。
なお、鳴滝塾の跡地は明治時代に入って娘・楠本イネが買い戻し、シーボルト宅跡として整備。1922年(大正11年)には、国の史跡に指定されました。