江戸時代の重要用語

日米和親条約 
/ホームメイト

1853年(嘉永6年)、アメリカの海軍提督ペリーが率いる4隻の「黒船」(くろふね)が、「浦賀」(うらが:神奈川県横須賀市)沖に来航。アメリカ船は太平洋を横断して中国へ到達する航路の途中、日本で燃料や食糧を補給する許可を求めました。1年にわたる協議の結果、幕府は要求を受け入れ、再び訪れたペリーとの間で条約を締結します。これが「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)です。このとき、「下田」(しもだ:静岡県下田市)と「箱館」(はこだて:現在の北海道函館市)も開港しました。これが日本の開国とされますが、実際この条約には貿易を開始することは書かれていませんでした。

江戸時代の重要用語

日米和親条約 
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1853年(嘉永6年)、アメリカの海軍提督ペリーが率いる4隻の「黒船」(くろふね)が、「浦賀」(うらが:神奈川県横須賀市)沖に来航。アメリカ船は太平洋を横断して中国へ到達する航路の途中、日本で燃料や食糧を補給する許可を求めました。1年にわたる協議の結果、幕府は要求を受け入れ、再び訪れたペリーとの間で条約を締結します。これが「日米和親条約」(にちべいわしんじょうやく)です。このとき、「下田」(しもだ:静岡県下田市)と「箱館」(はこだて:現在の北海道函館市)も開港しました。これが日本の開国とされますが、実際この条約には貿易を開始することは書かれていませんでした。

かたくなな鎖国から条約締結へ

世界を股にかけていた欧米列強

18世紀半ば、イギリスでは蒸気機関の発明による「産業革命」が起きていました。毛織物や綿織物が機械で大量生産されるようになり、イギリスやアメリカなど欧米の「列強」(れっきょう:強い力を持った国々)は、製品を販売する市場と原料の輸入元を開拓するために海外へ進出。日本にも毎年のように外国船が交易を求めて来航します。

しかし、これが「植民地」政策であることを知っていた江戸幕府は「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい)を出し、外国船を砲撃して追い払っていました。

ところが1842年(天保13年)にイギリスがアヘン戦争で中国に勝ったと知ると、異国船打払令を撤回。その代わりに「薪水給与令」(しんすいきゅうよれい)を出し、外国船に燃料や水を提供するように方針を転換します。

しかし開国や交易を要求されても、幕府は断固として拒否し続けました。

ペリー来航、そして開国へ

1853年(嘉永6年)、江戸湾の入口にあたる浦賀沖にアメリカの海軍提督ペリーが率いる4隻の巨大な軍艦が現れます。高々とそびえる帆の間から、煤(すす)の混じった黒い蒸気が上がる軍艦を、地元の人々は「黒船」と呼び恐れました。

ペリーは捕鯨と中国貿易を行うアメリカ船に対して、燃料や食糧の補給を求める大統領からの手紙を幕府に届けました。

当時のアメリカ船の航路は、アフリカやインドを経由して中国へ到達する東回りで、太平洋を横断する最短の航路を開くには日本の協力が不可欠だったのです。

幕府は回答を保留し、1年待つとの約束でペリーは帰国。そして1年後の1854年(嘉永7年)、ペリーは9隻もの軍艦を率いて再び江戸湾に現れます。

つまり、これは江戸城をいつでも攻撃できることを示すアメリカの威嚇でした。アメリカの軍事力に脅威を感じた幕府は、条約締結を決定。日本はついに開国に応じることになりました。

不平等な日米和親条約の内容

燃料や食糧の補給を約束

日米和親条約で定められたのは、下田(静岡県下田市)と箱館(北海道函館市)の開港です。この2港で燃料の薪や石炭・食糧・水の補給を行えることとし、またアメリカ船が日本近海で難破した場合にはこの2港へ送り届け、アメリカへ引渡すことが決められました。

その他、アメリカ人に売る物品の値段は日本人が決めて良いことや、他に必要なことがあれば2国間で話し合って決めること、遭難や悪天候でない限り、船が下田や箱館以外の港に入らないなど細かい条項も決められています。

一方、下田にアメリカ領事館を置いて領事(自国民の保護や交易促進にあたる役人)を駐在させる「領事権」も承認されました。

アメリカだけに有利な最恵国待遇

しかし、日米和親条約は日本にとって明らかに不平等な条約でした。その最たるものが「片務的最恵国待遇の供与」(へんむてきさいけいこくたいぐうのきょうよ:最も優遇する国としての扱いを、一方だけが与えること)です。

アメリカがペリーを遣わした目的は日本で燃料や食糧、水の補給を可能にすることでした。しかし本音では、日本との貿易を開始することが最大の目的。

そこでアメリカは日米和親条約の中に、「今後、日本が他国と貿易の条約を結ぶ場合は、アメリカにも同等の条約を結ばせる」という内容を盛り込み、アメリカを最恵国(最も優遇された国)として扱うことを約束させます。

例えば、世界の他の国が抜け駆けして日本と貿易を開始したとしても、最恵国待遇の条件があるためアメリカが不利になることがありません。

この条約が不平等だったのは、日本はアメリカを最恵国として扱わなくてはならないのに、アメリカが日本を最恵国として扱う必要がないということでした。

幕府の危機感に反して進む開国

「安政の改革」で海上防衛を強化

阿部正弘

阿部正弘

19世紀の日本は、度重なる改革の失敗や飢饉(ききん)などにより幕府の権威が低下し、天皇を崇める「尊王論」(そんのうろん)が高まっていました。しかも外国の船舶が次々と来航し、日本人は大きな危機感を抱えていたのです。

ペリーが最初に来航したのは、こうした国内外に様々な問題を抱えた「内憂外患」(ないゆうがいかん)の時期でした。

そこで老中「阿部正弘」(あべまさひろ)は、「安政の改革」(あんせいのかいかく)と呼ばれる改革に着手。江戸時代の改革が主に経済の立て直しであったのに対し、こちらは国防に重きを置いた政策です。

1853年(嘉永6年)、各藩の大名に大型船を建造するよう命じ、海軍力の増強を図ります。また江戸湾沿岸に「台場」(だいば:砲台を設置する場所)を建設し、近づいた外国船を大砲で迎え撃つ態勢を築きました。

これ以上は外国船の来航を許さないという強い姿勢を示し、幕府の権威を再び高めようとしたのです。

大きく開いていく世界への窓

阿部正弘の強気な政策にもかかわらず、日本は1854年(嘉永7年)にアメリカと和親条約を結び、その後イギリス・ロシア・オランダとの間でもそれぞれ和親条約を締結することになります。

しかも、いずれの国にもアメリカと同じ片務的最恵国待遇を与えるという不平等な条約。さらにアメリカが下田の領事館に駐在させた総領事「ハリス」を通じて日本に貿易を強く迫った結果、1858年(安政5年)、ついに貿易に関する「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)が結ばれることとなります。

ペリー来航をきっかけに世界へ開いた日本の窓は、こうしてより大きく開いていったのです。

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