「日英通商航海条約」(にちえいつうしょうこうかいじょうやく)とは、「日清戦争」(にっしんせんそう)直前の1894年(明治27年)に、イギリスとの間で結ばれた条約です。領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復を実現したもので、明治維新以来、最大の懸案事項であった条約改正の第一歩となりました。ちなみにこの日英通商航海条約は、のちに「太平洋戦争」(たいへいようせんそう)の開戦直前の1941年(昭和16年)7月に、イギリスより条約破棄の通告がなされ、効力を失っています。
1889年(明治22年)に「大日本帝国憲法」(だいにっぽんていこくけんぽう)の制定、翌1890年(明治23年)には「帝国議会」(ていこくぎかい)が開設され、日本は統治機構・法制度の近代化へと大きな一歩を進めます。
その一方、幕末からいまだ持ち越しのままであったのが、欧米諸国と結んだ日本に不利な不平等条約の改正でした。条約改正の目標は、大きく2つ。「領事裁判権の撤廃」と「関税自主権の回復」です。
領事裁判権とは、外国人が日本国内で罪を犯しても、その国の領事裁判官がその国の法律で罰するというもの。これは、「治外法権」(ちがいほうけん)のひとつで、外国人犯罪者を日本の法律では裁けないのです。
その不平等を痛感する事件が、1886年(明治19年)に起こります。イギリスの汽船ノルマントン号が横浜から神戸に向かう紀州沖で難破し、船長とイギリス人乗務員30名はボートで脱出して無事でしたが、日本人乗客25名は全員溺死。
この事件の裁判は領事裁判権が行使され、神戸のイギリス領事裁判所でイギリス人判事が担当。イギリス人乗組員のほとんどが無罪となります。
関税自主権とは、輸出入品の関税率を自分の国で決定できる権利です。日本が当時、欧米諸国と結んでいた条約では、日本にはその関税自主権がなく、お互いに協議して決めることになっていました。
このため、安い製品の輸入によって国内産業の育成が阻まれ、関税自主権の回復は、日本が殖産産業を進めるうえで何としても実現したいことでした。
これまで、この不平等条約の改正には、1871年(明治4年)の右大臣「岩倉具視」(いわくらともみ)を大使として欧米諸国へ派遣された「岩倉使節団」(いわくらしせつだん)を皮切りに取り組みましたが、ことごとく失敗に終わっていました。
1878年(明治11年)、外務卿(がいむきょう:のちの外務大臣)の「寺島宗則」(てらじまむねのり)が、関税自主権の回復に関してアメリカからは賛成を得るものの、イギリス・ドイツなどの反対で回復無効に。
1882~1887年(明治15~20年)には、外務卿の「井上馨」(いのうえかおる)が「欧化政策」(おうかせいさく:日本が文明国であることを欧米諸国へ示すための政策)を展開し交渉に挑みますが、日本が求める条約改正とはなりませんでした。
その跡を継いだ外務大臣「大隈重信」(おおくましげのぶ)は、条約改正に好意的な国から個別に交渉をはじめ、1889年(明治22年)に、アメリカ・ドイツ・ロシア帝国との間では改正条約を調印。しかし、条約正文以外の約束として、大審院(だいしんいん:最高裁判所)への外国人判事の任用を認めていたことが分かると、明治政府内外に強い反対論が起こります。反対派によって大隈重信が負傷させられると、改正交渉は再び中断してしまいました。
1890年(明治23年)、これまで条約改正に後ろ向きだったイギリスが、交渉に応じます。外務大臣「青木周蔵」(あおきしゅうぞう)は、外国人判事を任用する条約改正案を取りやめ、イギリスと交渉したのです。
イギリスが、青木周蔵との交渉に応じたのは、大きく2つの要因がありました。ひとつは、イギリスがロシア帝国の極東進出を警戒し、日本に好意的な態度を示すようになっていたこと。もうひとつは、「アジアで初めて立憲体制(りっけんたいせい:憲法を制定し、その憲法に基づいて議会で政治を行う国家)を整えた日本側への高評価」が大きな要因としてあったとされています。
しかし、その交渉のさなか、1891年(明治24年)に来日中のロシア帝国皇太子「ニコライ・ロマノフ」が、滋賀県大津市内で警備にあたっていた巡査「津田三蔵」(つださんぞう)によって斬り付けられる「大津事件」(おおつじけん)が発生。これにより、青木周蔵は外務大臣を引責辞任し、交渉は再び中断してしまいます。
その後、「陸奥宗光」(むつむねみつ)が外務大臣に就任すると、駐独大使になっていた青木周蔵に駐英公使をかねさせ、ロンドンでイギリスの外相「キンバレー」との交渉にあたらせました。
そして、1894年(明治27年)7月16日、青木周蔵公使とキンバレー英国外務大臣が、ロンドンにおいて日英通商航海条約に調印。これにより、日本は領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部回復を達成し、条約改正は大きく前進しました。
日英通商航海条約は、相互対等の最恵国待遇を規定し、領事裁判権を撤廃しましたが、関税権回復については不完全で、関税率は一律5%から15%に引き上げられたものの、最重要輸出品については、片務的(へんむてき:一方だけが義務を負うこと)協定関税を残したままでした。
結果的に関税自主権の完全回復は、第2次「桂太郎」(かつらたろう)内閣の外務大臣「小村寿太郎」(こむらじゅたろう)が、1911年(明治44年)に調印した「日米通商航海条約」が最初となります。
日英通商航海条約交渉が、調印へと向かおうというその頃、事件が起こっていました。1894年(明治27年)6月2日、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)が、「甲午農民戦争」(こうごのうみんせんそう:東学党[とうがくとう:朝鮮における新興宗教のひとつ]を中心とした農民蜂起)の鎮圧のため、清(しん:17~20世紀の中国王朝)に出兵を要請したとの知らせを聞いた明治政府は、即座に朝鮮への出兵を決定。
しかし、朝鮮に上陸した日本軍は、しばらく清軍とにらみ合ったまま行動を起こしませんでした。それは、イギリスとの条約改正交渉を待っていたため。当初は日本の出兵に批判的だったイギリスが、日英通商航海条約に調印すると態度を軟化。国際情勢は、日本に有利になりました。
日本は李氏朝鮮に対し、「清を宗主国(そうしゅこく:支配国)と仰ぎ、その保護を受ける宗族関係(そうぞくかんけい:血縁関係)の破棄」などを要求する最後通達を突き付けます。そして1894年(明治27年)8月、日本は清に宣戦を布告し、日清戦争へと突入しました。