「二条城」(にじょうじょう)は、1603年(慶長8年)、江戸幕府初代征夷大将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)が築城し、将軍が上洛する際の宿所として使用した城です。幕末には江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が「大政奉還」(たいせいほうかん)を宣言した場所としても知られています。二条城の壮麗な建築と庭園、絢爛な障壁画の多くは重要文化財の指定を受けており、なかでも二の丸御殿は国宝、二の丸庭園は国の特別名勝です。1994年(平成6年)には、二条城を含む「古都京都の文化財」がユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に登録されました。
「徳川家康」は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に勝利して事実上の天下統一を果たすと、翌年の1601年(慶長6年)に二条城の築城に取りかかります。
徳川家康は西日本の諸大名に費用や労務の供出(きょうしゅつ:政府の命令により差し出すこと)を課し、二条城は1603年(慶長8年)に完成。
この年、徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任じられると、帝に感謝を告げる「拝賀の礼」を行うため、完成したばかりの二条城から御所へ出向き、また、二条城に重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝宴を催しました。
また、徳川家康は1611年(慶長16年)に、二条城で豊臣秀吉の遺児「豊臣秀頼」(とよとみひでより)と会見しています。このとき両者は互いに礼を尽くしており、徳川家の家臣「松平家忠」(まつだいらいえただ)は、会見が無事に運んだことを民衆も喜んだと日記に書き残しました。
しかし、その後、豊臣家と徳川家は1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」と1615年(慶長20年/元和元年)の「大坂夏の陣」で対峙し、その結果、豊臣家は滅亡します。この2度の合戦において、二条城は軍議と本営の場になりました。
そののち、徳川幕府第2代征夷大将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と第3代征夷大将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)が拡張修理を手がけ、現在見られる二条城の規模になります。徳川秀忠の娘「徳川和子」(とくがわまさこ)が「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)に嫁ぐ際の長大な輿入れ行列は二条城から出発しました。また、徳川家光は将軍になると後水尾天皇の行幸(ぎょうこう:天皇の外出)を二条城に迎えてもてなしたのです。
徳川家光以降の徳川幕府将軍が二条城に滞在することはなく、二条城は歴史の表舞台に登場しなくなります。この間は「二条在番」(にじょうざいばん)の役目を任命された武士が江戸から派遣され、管理と警備にあたっていたのです。この230年間で二条城は、落雷や大火により本丸御殿や天守などを焼失しますが、再建されないままでした。
二条城は大政奉還ののち、朝廷に引渡され、一時は朝廷の行政組織「太政官」(だじょうかん)が設置されていました。その後、明治時代初頭には京都府庁舎として使われたり、陸軍省の所管になったりしましたが、1884年(明治17年)には皇室の別邸「二条離宮」となり、何度か修理や増築が行われます。1915年(大正4年)には「大正天皇」即位礼の饗宴(きょうえん)が二条離宮で催されており、この時期の二条城は皇室の離宮として重要な役割を果たしていたのです。
1939年(昭和14年)に、二条離宮は京都市に下賜され、翌年の1940年(昭和15年)から一般公開が始まりました。こうした経緯があるため、現在も二条城の正式名称は「元離宮二条城」なのです。
二条城が築城された時代には、戦国乱世の終結を背景に新興大名や豪商が登場し、彼らが好んだ豪奢で華やかな「桃山文化」が花開きました。二条城の建築や庭園、城内を彩る障壁画にも桃山文化の粋が見られます。
二の丸御殿は、現在の和室の原型になった建築様式「書院造」(しょいんづくり)の代表例であり、現存する唯一の城郭御殿群です。
二の丸御殿は6棟からなり、遠侍(とおざむらい)、式台(しきだい)、大広間、蘇鉄の間(そてつのま)、黒書院、白書院という構成で、全33室、広さは延べ800畳を超えます。
室内は豪華な欄間彫刻で飾られ、絢爛な障壁画を手がけたのは、室町時代から時の権力者に重用され、江戸時代を通して日本画壇に君臨した狩野派(かのうは)の絵師らです。また、二の丸御殿の廊下は人が歩くと音が鳴る「鶯張り」(うぐいすばり)で、来客や敵の侵入を知らせました。
二条城の本来の本丸御殿は、江戸幕府第3代将軍・徳川家光が1626年(寛永3年)に後水尾天皇の行幸を迎えるために築きましたが、1788年(天明8年)に起きた大火で焼失しています。
現在の本丸御殿は、1894年(明治27年)に「明治天皇」の意向で、公家「桂宮家」(かつらのみやけ)の邸を移築した建物です。明治時代に二条城が皇室所管の二条離宮となっていた頃には、この移築された本丸御殿が主に離宮としての役割を果たしました。
現存する本丸御殿は、玄関には重厚な破風(はふ:切妻屋根に設ける造形)を持つ車寄せがあり、政務室であった御常御殿(おつねごてん)の障壁図は「狩野永岳」(かのうえいがく)の作です。公式の対面所の役割を持っていた御書院には、畳を取り外すと能舞台になる仕様の部屋があります。
徳川家康が二条城を築城した当時の二の丸庭園は、江戸時代初期の大名で茶人・作庭家としても活躍した「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)の作でしたが、将軍の滞在が途絶えていた230年間で荒廃し、幕末の頃には木々は枯れ、池は渇ききっていました。
現在見られる二の丸庭園は、明治時代に二条城が皇室所管の離宮となっていた時期の作庭と考えられています。池の中央に仙人が住むと言われる蓬莱島(ほうらいじま)に擬した石を置き、その周りに鶴島、亀島を配置する「神仙蓬莱」(しんせんほうらい)の世界を表す池泉回遊式庭園です。
現在、一般公開されている二条城・二の丸御殿の障壁画は、原画を保護するため模写により制作された複製です。狩野派の絵師らが手がけた約3,600面の絢爛な原画は、2005年(平成17年)に二条城の敷地内に開館した「障壁画展示収蔵館」で保管しており、二の丸御殿と同じ配置で公開し、通常年4回の展示替えを行っています。