江戸時代の重要用語

日光東照宮 
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1999年(平成11年)、栃木県日光市の社寺が「世界文化遺産」(せかいぶんかいさん)に認定されました。なかでも最も有名なのが、江戸幕府初代将軍「徳川家康」を祀った「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)です。その大きな魅力が、国宝8棟と重要文化財34棟を含む、55棟の豪華絢爛な建物。これらは1636年(寛永13年)に3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)によって建て替えられたときのままで、多種多様な彫刻の数々が施された姿は、まさに巨大な芸術品です。そして建立から400年近くが経過した今日、日光東照宮は世界から多くの観光客を集めています。

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1999年(平成11年)、栃木県日光市の社寺が「世界文化遺産」(せかいぶんかいさん)に認定されました。なかでも最も有名なのが、江戸幕府初代将軍「徳川家康」を祀った「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)です。その大きな魅力が、国宝8棟と重要文化財34棟を含む、55棟の豪華絢爛な建物。これらは1636年(寛永13年)に3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)によって建て替えられたときのままで、多種多様な彫刻の数々が施された姿は、まさに巨大な芸術品です。そして建立から400年近くが経過した今日、日光東照宮は世界から多くの観光客を集めています。

日光東照宮の歴史

初代将軍・徳川家康の遺言

1616年(元和2年)、自らの死期を悟った徳川家康は遺言を残します。そのひとつが、一周忌を過ぎたら、江戸の真北にあることで知られる下野(しもつけ:現在の栃木県)の日光山(にっこうさん:栃木県日光市)に小さなお堂を築いて自分を祀れというもの。古代中国では、常に同じ位置で輝く北極星は「宇宙を司る神」とされ、中国の都に影響を受けた日本の平城京平安京でも、北極星を背にする位置(北限の中央)に「内裏」(だいり:朝廷が政治を行う建物)を置いたことからも、北の位置が重要な意味を持っていたことが分かります。

徳川家康は自分が死んだあと、江戸の真北にある日光から見守ろうとしたのです。その証拠に、徳川家康が祀られた日光東照宮の本殿は真南、つまり江戸の方向を見つめています。

巨大な寺院に建て替えた3代将軍

日光東照宮

日光東照宮

徳川家康が遺言で命じたのは小さなお堂でしたが、一周忌に2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が建立したのは現在とほぼ同じ、巨大な規模の建物。

そして祖父を熱烈に崇拝していた3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)は、徳川家康の21回忌に合わせて全面的な建替えを行います。

これは伊勢神宮の「式年遷宮」(しきねんせんぐう:20年ごとに建物を新築すること)に倣ったものでした。この大規模な建替えを「寛永の大造替」(かんえいのだいぞうたい)と言います。

この事業、総工費が半端ではありません。工事前、徳川家光は「費用お構いなし」(経費がどれだけかかっても構わない)と命じただけあって、わずか1年5ヵ月の工期に動員された人員は、建物工事の職人が述べ170万人、雑役が280万人、絵画や彩色・漆・金具などの職人を合わせると、全体で650万人が動員されました。しかも工事後に費用が約100万両であったと聞いた徳川家光は「思ったより安かった」と答えたというのです。

試算によれば、総工費は現在の価値に換算すると2,000億円。これは当時の国家予算の約5%とされますから、寛永の大造替は江戸幕府の威信をかけた大事業であったことが分かります。

日光東照宮の魅力

永遠の芸術品、陽明門

陽明門

陽明門

日光東照宮で最も有名な建物と言えば、1日中見ていても飽きないほど美しいことから「日暮御門」(ひぐらしごもん)と呼ばれた国宝「陽明門」(ようめいもん)。高さ11.2m・幅7.1m、奥行き4.2mの門には、当時の建築や工芸・彫刻・絵画などの最先端の美と、それを永遠に保とうとする思いが凝縮されていました。

例えば陽明門の12本の柱には「グリ紋」(獣の顔に見えるため「獣面紋」[じゅうめんもん]とも)が施されていますが、北側の西から2本目の柱だけが他と紋が逆向きになっています。そこに込められているのは、人間が造った建物は完成した瞬間に崩壊が始まることから、あえて完成させないことで崩壊を防ぐというおまじない。

同様の逆向きのグリ紋は、拝殿と「石の間」(いしのま)の境や、本殿と石の間の境にある柱にも見られます。そこには、徳川家康の偉業を永遠に残したいという徳川家光の強い意志が込められているのです。

すべて意味を持つ彫刻

また、もうひとつの日光東照宮の見どころが、全国から集められた名工の手による極彩色の彫刻。55棟の建物のうち41棟に、人物・動物・鳥類・植物・昆虫・魚類・自然現象などの彫刻が刻まれています。その数、なんと5,173個。さらに、これらの彫刻にも意味が込められていました。

例えば「左甚五郎」(ひだりじんごろう:江戸時代初期に活躍したとされる伝説の彫刻職人)の作とされる「眠り猫」(ねむりねこ)。眠り猫の裏側に遊ぶ雀の姿が彫られていることから、「猫が雀を捕える弱肉強食の戦国時代が終わり、平和な時代が訪れた」ことを表現したと言われます。

つまり、これも徳川家康の偉業を伝えたいという徳川家光の思いの現れ。陽明門に彫られた「唐子遊び」(からこあそび)と呼ばれる子ども達の彫刻にも、平和を実現した徳川家康への尊敬の念が込められています。

子ザルに見える教育方針

神厩に彫られた三猿

神厩に彫られた三猿

「神厩」(しんきゅう:馬を飼う建物)に彫られた「三猿」(さんざる)も、日光東照宮を代表する彫刻のひとつ。

3匹のサルが目・耳・口を手でふさぐ姿から「見ざる・聞かざる・言わざる」の別名で知られますが、実はこれ、8面ある彫刻のひとつ。全体はひとつのストーリーになっており、生まれたばかりのサルが幼年期から少年、そして青年になり、様々な経験をしながら結婚し、子ども(子ザル)が誕生するまでが紙芝居のように表わされています。

よく三猿は「都合の悪いことは、見たり聞いたり話したりしない方が良い」という世渡り術だと解説されますが、それは誤解。成長ストーリーの中でこの面は2番目、つまり幼少期を表わしており、子ザルの時代(人間なら物心がつく頃)には、悪いことを見たり、聞いたり、話したりしないで、素直な心のまま育てるのが良いという教育論が反映されているのです。

現代の日光東照宮

一生物のお守りがある

現在でも日光は、日本が世界に誇る観光地のひとつ。美しい自然と豪華な建造物を求めて、毎年数百万人の観光客が訪れます。またパワースポットももりだくさんで、陽明門と唐銅鳥居の中心を結んだ後ろから3枚目の石畳にあるとされる「北辰の道の起点」や、徳川家康の墓である「宝塔」の近くにある、願いがかなう「叶う杉」(かのうすぎ)、徳川家光の霊廟(れいびょう:霊を祀る建物)であり金色に輝く「大猷院」(たいゆういん)など、多くがSNSで拡散され、こちらも大人気です。

一般的なお守りのご利益は1年と言われますが、祭神である徳川家康が長い苦労の末に天下統一を果たしたため、日光東照宮のお守りは一生ご利益が続くと言われます。そのため、叶う杉や眠り猫、三猿など、バラエティ豊かなお守りが揃っているのも、日光東照宮の魅力のひとつです。

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