明治時代の重要用語

日清修好条規 
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「日清修好条規」(にっしんしゅうこうじょうき)とは、1871年(明治4年)に明治政府が近隣外交政策の一環として、清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)へ使節を派遣して結ばれた条約のことです。貿易を目的として日本・清ともに正式に開港、また領事裁判権においても相互承認も含め、日本が外国と結んだ最初の対等な条約とされています。この条約は、1894年(明治27年)に「日清戦争」(にっしんせんそう:日本と清の戦争)が勃発するまで効力が続きました。

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「日清修好条規」(にっしんしゅうこうじょうき)とは、1871年(明治4年)に明治政府が近隣外交政策の一環として、清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)へ使節を派遣して結ばれた条約のことです。貿易を目的として日本・清ともに正式に開港、また領事裁判権においても相互承認も含め、日本が外国と結んだ最初の対等な条約とされています。この条約は、1894年(明治27年)に「日清戦争」(にっしんせんそう:日本と清の戦争)が勃発するまで効力が続きました。

日清修好条約の背景

3つの外交問題

日清修好条規

日清修好条規

1871年(明治4年)に締結された「日清修好条規」は、日本と清が対等な立場で結んだ条約で、幕末に欧米列強との間で締結された不平等条約とは内容を異にするものです。

その背景にあった明治時代の外交を見てみましょう。誕生した当時の明治政府には、下記の通り3つの外交問題がありました。

  • ①欧米諸外国との不平等条約の改正
  • ②近隣外交の構築
  • ③近隣諸国との国境の画定

欧米諸国との不平等条約の改正

まず、欧米諸国との不平等条約の改正において、明治政府は1854年(嘉永7年)の「日米和親条約」(開国の起点となったアメリカとの最初の条約)を皮切りに、幕末に結ばれた諸条約を引き継ぐとともに、1868年(明治元年)にはスウェーデン・ノルウェー・スペイン、そして翌1869年(明治2年)には北ドイツ連邦・オーストリア・ハンガリーともそれぞれ通商条約を締結。しかし、これらの条約は、いずれも外国側に領事裁判権を付与し、日本側の関税自主権を否定する不平等条約でした。

1867年(慶応3年)12月9日に「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)を発布しますが、すぐに明治政府軍と旧江戸幕府軍の間で「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が勃発します。この戊辰戦争が起こった当初、日本と外交関係を持つ欧米諸国の多くがどちらの側にも立たない中立の立場を宣言したため、明治政府は不平等な諸条約の継承を表明せざるを得なかったのです。

そして、英仏両国の公使に天皇との謁見を許すなど、親善策を取りました。これによって明治政府の発足から約1年後、欧米諸国から正統な政府であるという承認を得ます。明治政府が、国の主権を妨げる外交問題に一歩を踏み出せたのはここからでした。

しかしその進捗は遅く、結果的に欧米諸国との条約改正交渉は、1871年(明治4年)の岩倉使節団から始まったものの、1911年(明治44年)の「日米通商航海条約」締結による関税自主権回復に至るまで、40年もの長きにわたる事業となりました。

近隣外交の構築

明治政府は、近隣外交の構築にも動き、その成果として表れたのが、1871年(明治4年)に清との間で結ばれた日清修好条規。日本と清との関係は、16~19世紀まで正式な国交はなく、貿易だけが継続して行われている状態でした。

幕末以降、日本と欧米諸国との間に外交関係が結ばれると、清人は欧米商人の使用人として来日し、開港地に居留。そのうちの一部が麻薬であるアヘンを密輸し、開港地の住民との間で争いが起こるなど、様々な問題が顕在化。しかし、国交がないことから明治政府はその取り扱いに苦慮していたのです。

近隣諸国との国境の画定

また、国境の画定も重要な課題でした。例えば、日本とロシア帝国の国境は、1855年(安政2年)に結ばれた「日露和親条約」(にちろわしんじょうやく)においては、択捉島(えとろふとう)と得撫島(うるっぷとう)の間とされ、樺太島(からふととう)については国境の決まりはなく、両国民の雑居の地とすると定められていたのです。当然ながら、のちに両国民の間で紛争事件が発生。そこで、1872年(明治5年)に日露間で国境画定の交渉がスタートします。

その結果、日本は千島列島(ちしまれっとう:占守島[しゅむしゅとう]から得撫島までの18の島々)をロシア帝国から譲り受ける代わりに、樺太全島を放棄したのです。

日清修好条規の概要

条約ではなく条規とした理由

近隣外交の構築の一環として結ばれた、1871年(明治4年)の日清修好条規の締結。日清修好条規は、基本的には日米修好通商条約などと同じ通商条約です。ではなぜ、「条約」ではなく「条規」とされたのでしょうか。これは、「国家間の付き合いにおいては、通商よりも修好を重んじる」という古来よりの東洋的な考えからでした。

日本における最初の対等条約

日清修好条規では、「両国ともに開港」・「領事裁判権を相互に承認」という、大きく2つの対等条約が結ばれています。このことから、日清修好条規は日本が外国と結んだ最初の対等条約と言われているのです。

この条約の批准書(ひじゅんしょ:条約に対する国家の確認文書)交換のため、1873年(明治6年)、外務卿(がいむきょう:外務大臣に相当)「副島種臣」(そえじまたねおみ)が清へ渡ります。副島種臣は、列国公使とともに清国皇帝に謁見する際、外務卿として先順を主張。列国公使に先んじて単独で謁見し、清国皇帝へ国書を捧呈(ほうてい:敬意を示して差し出すこと)します。

また、副島種臣は全権大使として、清の皇帝に対して「三跪九叩」(さんききゅうこう:清国皇帝に対する拝礼方式で、3度ひざまずいてから、頭を地面に9回付けて臣下の意を示す)を行わず、対等な拝礼をします。実はこの行動は、諸君主との間に国の大小を問わず、「独立国」同士の対等な関係を意味する「主権」の原理を主張したものだとされています。

その後、李氏朝鮮とも修好条規を締結

不平等条約だった日朝修好条規

近隣外交の構築においては、その後、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)との間でも「日朝修好条規」(にっちょうしゅうこうじょうき)を締結します。

これは1875年(明治8年)に、「江華島事件」(こうかとうじけん)と呼ばれる、国交再開を巡る日本軍の行動に端を発した日本・李氏朝鮮の間の武力衝突を機に、日本が朝鮮に迫って条約を結んだものです。しかし、この日朝修好条規では、釜山(ぷさん)・仁川(いんちょん)・元山(うぉんさん)の3港を開かせ、また日本の領事裁判権を認めさせる、日本側に有利な内容の不平等条約でした。

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