大正時代の重要用語

日ソ基本条約 
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「日ソ基本条約」とは、1925年(大正14年)1月に、革命によってロシア帝国を廃した「ソヴィエト社会主義共和国連邦」(通称:ソ連)と日本との間で締結された、国交回復を目的とする条約で、これによりソ連と日本の国交が樹立されました。その際、旧ロシア帝国時代に結んだ「ポーツマス条約」の法的効力の承認、北樺太(きたからふと)からの日本軍の撤兵と引き換えに、同地方における油田の半分の開発権などを獲得しています。

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「日ソ基本条約」とは、1925年(大正14年)1月に、革命によってロシア帝国を廃した「ソヴィエト社会主義共和国連邦」(通称:ソ連)と日本との間で締結された、国交回復を目的とする条約で、これによりソ連と日本の国交が樹立されました。その際、旧ロシア帝国時代に結んだ「ポーツマス条約」の法的効力の承認、北樺太(きたからふと)からの日本軍の撤兵と引き換えに、同地方における油田の半分の開発権などを獲得しています。

日ソ基本条約背景

ロシア革命勃発とソ連の誕生

1914年(大正3年)に始まった「第1次世界大戦」が長引くなか、1917年(大正6年)にロシア帝国内で「ロシア革命」が勃発。このロシア革命には、これまでの資本主義の弊害(へいがい)を正し、平等な社会を目指す社会主義思想、財産を共同所有することで、さらに平等な社会を目指す共産主義思想の一般庶民への広がりが背景にありました。

第1次世界大戦の戦費負担がロシア帝国経済を大きく圧迫すると、経済的崩壊の直撃を受けたロシア帝国の国民は、ロシア帝国政府への抵抗姿勢を強め、次第に労働運動が高まりを見せていきます。また、戦時動員に抗議するロシア帝国内の中央アジア諸民族が蜂起(ほうき)し、ロシア帝国は土台から揺らぎ始めました。

混乱したロシア帝国では、ロマノフ朝14代「ニコライ・ロマノフ2世」が革命勢力を厳しく弾圧しますが、1917年(大正6年)の2度にわたる革命(ロシア革命)を招きます。同年2月、ロシア帝国の首都ペトログラードでストライキが発生。翌月には臨時政府がつくられ、ニコライ・ロマノフ2世が退位して帝政ロマノフ朝は崩壊します。

ウラジーミル・レーニン

ウラジーミル・レーニン

続いて、同年11月に革命家「ウラジーミル・レーニン」率いる「ボリシェヴィキ」(のちのソ連共産党)が臨時政府を倒し、ロシアは大きく体制を転換。ウラジーミル・レーニンの指導下で、世界史上初の社会主義政権が誕生しました。

新政権を担ったボリシェヴィキは、反対勢力との内戦、外国からの干渉戦争と戦いながらロシア国内を再統合し、ソヴィエト社会主義共和国連邦を樹立。

そののち、ソ連は20世紀における世界情勢のなかで、資本主義世界への挑戦者として終始巨大な影響を及ぼしていきました。

日本のシベリア出兵

ソ連政府が、国内政策として地主から所有地を取り上げ、無償で農民に土地を与え始めると、こういった社会主義、共産主義の影響を恐れたアメリカ、イギリス、フランスは、革命による内戦下のソ連に干渉戦争を仕掛け、日本にも共同出兵を促します。

シベリア出兵における日本軍

シベリア出兵における日本軍

当時の「寺内正毅」(てらうちまさたけ)内閣は、アメリカがシベリアにおけるチェコスロバキア軍の救援を名目とする共同出兵の提唱を受け、1918年(大正7年)8月にシベリア、及び北満州(中国北東部)へ派兵(シベリア出兵)を開始。

第1次世界大戦が終わると、欧米諸国はソ連への干渉戦争から手を引き撤兵しますが、シベリアへの勢力拡大を狙う日本は引き続きシベリアに駐兵を続けます。そして、1922年(大正11年)欧米諸国の非難を浴びて、ようやく撤兵し、日本のシベリア進出を目指したシベリア出兵は失敗に終わりました。

ワシントン体制の成立

第1次世界大戦で疲弊した国際社会には、平和を求めるムードが漂いました。その象徴が、1920年(大正9年)に発足した初の平和機構「国際連盟」です。

日本はイギリス、フランス、イタリアとともに常任理事国(議決権を持ち、任期が定められていない理事国)となり、「新渡戸稲造」(にとべいなぞう)が初代事務局長に就任。新興国としての存在感を示しますが、日本が大国として振る舞うほど欧米諸国から危険視され、中華民国(清王朝を廃した新政権)からは、日本が中華民国に対し不平等な条件を突き付けた「二十一ヵ条の条約」によって敵視されます。

そんななか、1921年(大正10年)12月、アメリカ大統領「ウォレン・ハーディング」の提唱により、ワシントンで軍縮会議が開催されます。このワシントン軍縮会議では、まず英仏日米の間で、太平洋諸島の現状維持、太平洋の安全保障について「4ヵ国条約」を締結。この4ヵ国条約締結と同時に「日英同盟協約」(日英同盟)が終了します。

翌1922年(大正11年)2月に、英仏日米にイタリア、中華民国などが加わり、中華民国の領土、及び主権の尊重、中華民国における各国の経済上の門戸開放、機会均等などを定めた「9ヵ国条約」を締結。さらに同年、英米日仏伊の5ヵ国の間で、「ワシントン海軍軍縮条約」が結ばれ、主力艦の保有比率をアメリカ、及びイギリスが各5、日本が3、フランス、及びイタリアが各1.67とし、今後10年間は老朽化しても代わりの軍艦を建造しないことを定めました。

この会議中に、日本はシベリア撤兵を宣言し、中華民国と「山東懸案解決条約」を結び、中華民国へ山東省の権益を返還します。これらの条約について日本国内では、軍部から強い反対の声があったものの、国際社会での孤立を回避しようと調印しました。

また、こうした一連の国際協定は、戦争再発の防止と列強間の協調を目指したもので、これらに基づく東アジア、太平洋地域の新しい国際秩序は「ワシントン体制」と呼ばれました。

日ソ基本条約の概要

協調外交への転換

1921年(大正10年)に誕生した「高橋是清」(たかはしこれきよ)内閣は、ワシントン体制を積極的に受け入れて、協調外交の基礎をつくります。続く、「加藤友三郎」(かとうともさぶろう)内閣、第2次「山本権兵衛」(やまもとごんべえ)内閣もこれを継承。この協調外交の継続を可能とした理由は、当時アメリカが現実的な経済外交に方針を転換したことで、1920年代の日米経済関係が極めて良好だったことが挙げられます。

1924年(大正13年)に、「加藤高明」(かとうたかあき)内閣が成立すると、これまで「立憲政友会」(伊藤博文[いとうひろぶみ]が設立した政党)系の外務大臣が展開してきた協調外交に反対を唱えていた「憲政会」も、総裁・加藤高明総理大臣の対中政策への穏健化姿勢もあって、憲政会出身の「幣原喜重郎」(しではらきじゅうろう)外相のもとで協調政策へ転ずるようになりました(幣原外交)。

日ソ国交樹立

日本は、1918年(大正7年)以来、ソ連政府の樹立に反対して軍を駐在していましたが、日本国内情勢を鑑みて1922年(大正11年)秋にはシベリアから、1925年(大正14年)秋には北樺太から撤兵します。また、1924年(大正13年)春に、イギリス、及びイタリアがソ連と国交を樹立し、中華民国もソ連と国交を正常化。日本も、1923年(大正12年)9月から北京でソ連との国交樹立交渉を行い、1925年(大正14年)1月20日に「日ソ基本条約」に調印します。

日ソ基本条約では国交の回復、旧ロシア帝国時代に締結したポーツマス条約の継承、第4次日露協約の廃棄についての協議、日ソ両国内での反政府運動の禁止、北洋漁業権、及び北樺太石油利権の日本側への供与などが定められました。

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