明治時代の重要用語

日朝修好条規 
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「日朝修好条規」(にっちょうしゅうこうじょうき)とは、1875年(明治8年)の「江華島事件」(こうかとうじけん)をきっかけに、日本が李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)に迫り、翌1876年(明治9年)に日朝間で結んだ修好条約です。1871年(明治4年)に、清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)との間で結ばれた対等な「日清修好条規」(にっしんしゅうこうじょうき)と異なり、日本に有利な不平等条約となっています。

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「日朝修好条規」(にっちょうしゅうこうじょうき)とは、1875年(明治8年)の「江華島事件」(こうかとうじけん)をきっかけに、日本が李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)に迫り、翌1876年(明治9年)に日朝間で結んだ修好条約です。1871年(明治4年)に、清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)との間で結ばれた対等な「日清修好条規」(にっしんしゅうこうじょうき)と異なり、日本に有利な不平等条約となっています。

日朝修好条規の背景

明治時代初期の李氏朝鮮

江戸時代末期、李氏朝鮮は鎖国政策を取っており、日本が1867年(慶応3年)に「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい)により明治政府を樹立した際、対馬藩(つしまはん:現在の長崎県対馬市)を通して李氏朝鮮へ、明治政府が誕生したことを伝える書状とともに、国交樹立を話し合うための使節を派遣しました。しかし、李氏朝鮮はこれを拒否します。

これは、李氏朝鮮側が「鎖国攘夷」(さこくじょうい:諸外国と付き合わず追い払うこと)政策を取っていたこともありますが、送られた書状に、李氏朝鮮が旧江戸幕府へ与えた印ではなく、明治政府の印が使われていたこと、また李氏朝鮮の宗主国(そうしゅこく:支配国)の清だけが使えるはずの「皇」の字を使っていたことを認めるわけにはいかなかったためとされています。

つまり、李氏朝鮮にとって宗主国・清と日本は同等ではないとし、その中国文化を享受した李氏朝鮮とも同等ではないとの考えでした。これが起因して、日本では「征韓論」(せいかんろん)が高まり始めます。

日本が抱えていた外交問題

そもそも征韓論は、幕末期に圧力が強くなった西欧諸国の植民地政策に対抗する策として誕生。幕末の思想家「吉田松陰」(よしだしょういん)は、西欧諸国に武力で対抗するには、日本だけの力では無理であり、李氏朝鮮・清も含めて東アジアを統一した勢力にすることが必須だという意見を持っていました。

その後、明治政府が誕生し、日本は近代国家への道を歩みます。しかし、幕末に欧米列強と結んだ不平等条約の改正、また日本の安全保障において、ロシア帝国の南下をいかにして食い止めるかが非常に大きな外交課題でした。

それを解決するには、李氏朝鮮・清と正式な国交を結んで協力し合うなかで、それぞれ自国を守り、ロシア帝国・欧米列強と対等に付き合えるようにしていくべきとの考えが、明治政府のなかに強くあったのです。

日朝修好条規への経緯

征韓論の高まり

征韓論を唱える人のなかにも様々な考えがあり、最も激しい意見としては、「李氏朝鮮を武力で征服する」というものでした。ところで、当時の相手は李氏朝鮮であるのに、なぜ「韓」の字を当てたのでしょうか。これには、いくつかの理由が考えられます。

まずひとつが、「征朝論」としてしまうと日本の朝廷を討つように受け取られかねないこと。そして、古代の朝鮮半島に馬韓(ばかん)・辰韓(しんかん)・弁韓(べんかん)という「三韓」の国があり、元来朝鮮民族の別称として韓族(かんぞく)があったこと。さらに、日本神話に登場する「神功皇后」(じんぐうこうごう:14代・仲哀天皇[ちゅうあいてんのう]の后)の「三韓征伐」のイメージなどから、「征韓論」になったと言われています。

征韓論は1871年(明治4年)11月から約1年10ヵ月にわたり、「岩倉使節団」(いわくらしせつだん)が、アメリカ・ヨーロッパへ派遣された間に高まります。岩倉使節団には、「岩倉具視」(いわくらともみ)を特命全権大使とし、明治政府の首脳の半分が参加。

そして、この留守を預かったのが、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)をはじめとする「留守政府」(るすせいふ)です。留守政府は、岩倉使節団が戻るまで重要な政策決定は行わない約束となっていましたが、それに反してあらゆる大改革を精力的に進めるとともに、李氏朝鮮・清・ロシア帝国などの近隣諸国との国交樹立・国境画定のための交渉にも取り組んでいました。

日本と清との間では、1871年(明治4年)9月に、平等な条約である「日清修好条規」(にっしんしゅうこうじょうき)を締結できましたが、李氏朝鮮とは、明治政府が何度も国交樹立に向けた使節を送りますが頑なに拒否され、膠着状態に。そんななか、1873年(明治6年)に「日本は野蛮な民族だ」という布告が釜山の倭館(わかん:日本の通交特使、または貿易管理のための屋敷)前に張り出されたという知らせが、留守政府のもとに届きます。

これは、李氏朝鮮に「排日」(はいにち:日本を排除すること)を堂々と宣言された形であり、留守政府内部では「この朝鮮の非礼を何としても正すべきだ」と、一気に征韓論が沸騰していったのです。

「征韓論」を巡って明治政府内で紛糾

留守政府のなかでも、「板垣退助」(いたがきたいすけ)は「すぐに李氏朝鮮へ出兵すべき」と強固な姿勢を見せます。それに対し西郷隆盛は、いきなり軍を送ることには反対の立場を取り、「自身が李氏朝鮮に赴いて説得にあたる」と主張。

この西郷隆盛の意見に、留守政府のトップ「三条実美」(さんじょうさねとみ)をはじめとする多くの高官が賛成の意を表し、西郷隆盛を李氏朝鮮へ派遣し、開国を迫ることが決定されます。

しかし、今は対外問題よりも内政を優先すべきだという「内治優先論」(ないちゆうせんろん)を訴える者もおり、さらに帰国した岩倉具視は「内務の充実に邁進すべき時期に外征を企てるとは何事だ」と、断固として征韓論に反対。

こうして、明治政府内では連日にわたり、征韓論側・内治優先論側との間で、非常に激しい論争が繰り広げられました。結果的に内治優先論側が勝ち、これに抗議する形で、西郷隆盛をはじめとする留守政府のメンバーがいっせいに明治政府の官職を辞職。これが「明治六年の政変」と呼ばれるものです。

この征韓論・内治優先論の論争という構図は、分かりやすく言えば、「今すぐ征韓すべき」・「征韓は必要だが時期尚早」の構図でした。

征韓論を巡って紛糾する閣議【楊洲斎周延「征韓論之図」】

征韓論を巡って紛糾する閣議【楊洲斎周延「征韓論之図」】

江華島事件

こうした経緯から、西郷隆盛・板垣退助らの辞職後も、明治政府内に李氏朝鮮を開国させようという動きがありました。明治政府のなかには、まず中央集権的な官僚政府を確立して強固なものとしたうえで、軍隊・警察を強化し、産業を振興して国力を高めてから李氏朝鮮を征圧しようという考えを持っていた首脳も多くいたのです。

これには、没落しつつある士族(しぞく:旧武士層)の不満を内乱に向けさせず、対外戦争に向かわせることで、士族に活路を与えようという狙いも含まれていました。

そして、1875年(明治8年)、この思惑が現実になります。李氏朝鮮へ通告なしに江華島(こうかとう:ソウル北西の黄海[こうかい]に位置する島)付近の測量を行った日本の軍艦が、李氏朝鮮側から砲撃を受けたことをきっかけに、明治政府は軍隊を派遣して江華島を占領。

そして、この江華島事件をきっかけに、翌1876年(明治9年)、李氏朝鮮に「日朝修好条規」を結ぶことを迫り、開国させたのです。

日朝修好条規の概要

日本に有利な不平等条約

この日朝修好条規への経緯は、日本が幕末に欧米列強国と条約を結んだときの欧米列強側と、まさに同じ手法でした。

そして、その内容も、釜山(ぷさん)・仁川(いんちょん)・元山(うぉんさん)の3港を開港させて、李氏朝鮮側の関税自主権(かんぜいじしゅけん:関税を自主的にかける権利)を認めず、かつ日本の領事裁判権(りょうじさいばんけん:日本人が罪を犯した場合、日本の法律で裁くこと)を認めさせるという、日本にとって有利な不平等条約だったのです。

【国立国会図書館ウェブサイトより】

  • 楊洲斎周延「征韓論之図」

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