「新渡戸稲造」(にとべいなぞう)は、1984~2007年(昭和59年~平成19年)の23年間、五千円札の肖像画となった人物です。明治・大正・昭和時代という激動の時期において、政治家・学者・教育者として活躍。日本の近代化に大きな影響を与えました。新渡戸稲造が残した「われ太平洋の架け橋とならん」の言葉が象徴するように、「国際連盟」(こくさいれんめい:世界平和を目的とした組織、現在の国際連合の前身)事務局次長として国家間紛争の解決、国際親善に尽力。英文で書かれた代表的著書「武士道」は、外国人に分かりやすく日本の伝統的な精神文化が紹介されており、刊行から120年以上たった今でも世界中で読み継がれています。
1862年(文久2年)、新渡戸稲造は盛岡藩(もりおかはん:現在の岩手県盛岡市)藩士の三男として誕生。この頃の日本は幕末の動乱期で、新渡戸稲造は、盛岡の伝統的な風土のなかで武士として育ちます。
1868年(明治元年)、明治時代の幕開けとともに武士の時代は終了。それまで新渡戸稲造は、武士であることに誇りを持つよう教えられていましたが、そうした教育面にも変化が起こります。
新渡戸稲造が5歳のときに父が急死。以後、女手ひとつで子供達を育てた母は、新渡戸稲造に読み書きの他、初歩の英語を習わせました。
そして9歳になると、東京に住む叔父から新渡戸稲造を養子に迎え、新しい時代にふさわしい教育を受けさせたいという申し出があり、1871年(明治4年)に新渡戸稲造は故郷・盛岡を離れ、東京で外国人教師から英語、西洋学問を学ぶことになります。
1875年(明治8年)には「東京英語学校」(とうきょうえいごがっこう:現在の東京大学教養学部の前身)に入学し、語学力に磨きをかけました。
さらに農学を学ぶため、15歳で「札幌農学校」(さっぽろのうがっこう:現在の北海道大学の前身)へ進学。ちなみに東京英語学校・札幌農学校での授業は、すべて外国人教師によって英語で行われました。この時期における学習が、やがて広い分野で活かされることとなります。
札幌農学校を卒業した新渡戸稲造は、英文学・経済学を学ぶため「東京帝国大学」(とうきょうていこくだいがく:現在の東京大学の前身)へ進学。入学時の面接で「日本と外国の文化を仲立ちする、太平洋の架け橋になりたい」と、自らの将来を予見するような言葉を述べています。
しかし新渡戸稲造は、国際人としての第一歩を踏み出すため、早く広い世界に出たいと考え、せっかく入学した東京帝国大学をわずか1年で退学。1884年(明治17年)に、私費でアメリカの「ジョンズ・ホプキンス大学」へ留学。ジョンズ・ホプキンス大学では経済学・農政学を学ぶかたわら、キリスト教に入信。
またこの頃、生涯の伴侶となる「メアリー・エルキントン」と出会います。その後の3年間、明治政府派遣留学生として、ドイツの「ハレ大学」(現在のマルティン・ルター大学)で農業経済学・統計学を修得。成果を論文「日本土地制度論」(にほんとちせいどろん)として発表し、日本初の農学博士号をハレ大学より贈られました。
帰国後は、札幌農学校、東京帝国大学、「京都帝国大学」(きょうとていこくだいがく:現在の京都大学の前身)などの教授を経て、「東京女子大学」(とうきょうじょしだいがく:東京都杉並区)の初代学長に就任。
さらに、日本の女子教育の先駆者と言われた「津田梅子」(つだうめこ)に協力して、「女子英学塾」(じょしえいがくじゅく:現在の津田塾大学の前身)の創立にも貢献。日本の教育界をリードする多くの人材を育成しました。
1920年(大正9年)に世界初の国際平和機構である国際連盟が設立されると、著作「武士道」によって世界的にも教育者として知られていた新渡戸稲造は、事務次長に選任。スイス・ジュネーブに7年間滞在します。
この間に、日本への理解を深めてもらうため、新渡戸稲造はヨーロッパ各地で講演を行うなど、国際親善に努めました。しかし、1924年(大正13年)、新渡戸稲造にとって第2の故郷とも言えるアメリカで「排日移民法」(はいにちいみんほう:日本人・日本製品を排斥することを定めた法律)が成立。
日本が「第1次世界大戦後」の混乱にまぎれ、清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)に対し、日本の利権を認めさせる「二十一ヵ条の要求」(にじゅういっかじょうのようきゅう)を突き付けたことへのアメリカ側からの報復措置でした。
新渡戸稲造は、1926年(大正15年)に事務総長を退任し、翌1927年(昭和2年)に帰国。日本と諸外国との関係は次第に悪化し、1933年(昭和8年)、ついに日本は国際連盟から脱退します。
それでも新渡戸稲造は国際社会との関係改善のため尽力し、カナダで行われた「太平洋会議」にも出席。しかしカナダで体調を崩し、71歳で客死(きゃくし:旅先や異国で死ぬこと)しました。その後、孤立した日本は「太平洋戦争」への道を突き進むこととなります。
国際連盟の事務次長という重要な仕事を行うには、「語学が堪能で見識を備え、人格も素晴らしく欧米人と対等に仕事ができる」ことが条件。
日本人として新渡戸稲造以上の適任者はいませんでした。国際連盟で新渡戸稲造が成し遂げた功績のひとつが、北欧のバルト海に浮かぶオーランド諸島の領土問題を平和的に解決したこと。オーランド諸島は、永くフィンランドとスウェーデンが領土権を争っていました。
新渡戸稲造は「オーランド諸島の領土はフィンランドのもの、公用語はスウェーデン語とし、非武装・中立地帯としてオーランド諸島に自治権を与える」と裁定。オーランド諸島に平和な日々が訪れ、「新渡戸裁定」(にとべさいてい)は国際紛争解決の成功例として今も語り継がれています。
著作「武士道」は、1900年(明治33年)に英文で出版されました。新渡戸稲造は日本人の根底にあるのは武士道だと考え、不正・卑劣な行動を嫌い、人として正しく美しく生きるのが日本人であると主張。
当時の欧米先進国からすれば、極東の島国である日本は発展途上の野蛮で戦争好きの国と考えられていました。新渡戸稲造は、そんな先入観を覆したかったのです。武士道は30ヵ国語以上に翻訳され、世界的ベストセラーになりました。
新渡戸稲造は日本で「軍国主義」(ぐんこくしゅぎ:外交手段として戦争を重視し、あらゆる政治経済・文化活動は軍事力強化のために行わなければならないとする国家体制)が台頭する中においても、亡くなるまで日本と諸外国との関係修復に奔走したのです。その生き方こそ、まさに武士道そのものでした。
新渡戸稲造は、キリスト教が縁でメアリー・エルキントンと出会い、28歳で結婚。しかし結婚式に花嫁の両親の姿はありませんでした。当時、国際結婚は大変珍しいだけでなく、日本人との結婚に妻の一族が大反対していたからです。
しかしメアリーの決心は揺るぎません。以後、メアリーは国際人として飛び回る夫を支え、武士道の執筆にも協力し、生涯にわたって良き伴侶であり続けました。
あるとき、新渡戸稲造は地方の講演先で髭を剃ろうと思い立ち、床屋へ行きました。あいにく店主は不在で、店番の弟子はまだ髭が剃れないと言います。そこで新渡戸稲造は、自分で剃るためカミソリを拝借して髭を剃り始めました。
床屋の弟子が「カミソリの扱いがお上手ですね」と褒めると、新渡戸稲造は「俺はスリの親分だからね」(当時のスリは衣服と結びつけている財布の紐をカミソリで切り、財布を盗んでいた)と冗談で返します。これが騒ぎとなり、宿泊先に警察官が駆けつける事態に。新渡戸稲造は50歳を過ぎても、いたずら心を持ち続けていました。