「乃木希典」(のぎまれすけ)は、長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)生まれの軍人です。1872年(明治5年)、22歳の若さで陸軍の上級幹部である少佐に任じられるほど、将来を期待された人物。責任感が強く、1877年(明治10年)の士族(しぞく:旧武士層)反乱「西南戦争」(せいなんせんそう)で、連隊旗を奪われたときには自決を覚悟したほど。「日清戦争」(にっしんせんそう)では旅順(りょじゅん)要塞を、わずか1日で落とすなど大活躍しました。しかし、「日露戦争」(にちろせんそう)で同じ旅順要塞の攻略を任された際は無駄に死傷者を増やし、指揮権を取り上げられるという屈辱を味わいながらも、最終的に攻略に成功。退役後は教育者となり、若者の育成に力を注ぎました。1912年(大正元年)、122代「明治天皇」(めいじてんのう)の「崩御」(ほうぎょ:天皇が亡くなること)とともに殉死しています。
長州藩で生まれた乃木希典は、「吉田松陰」(よしだしょういん)の遠縁に当たり、私塾「松下村塾」(しょうかそんじゅく)を開いた「玉木文之進」(たまきぶんのしん)から、兵学を教わりました。
一度は学者を目指して長州藩校「明倫館」(めいりんかん)に通いましたが、やがて軍人になることを決意。そして長州藩の命令で「御親兵」(ごしんぺい:天皇を護衛する軍隊)に入営し、ここでフランス式訓練法を学びます。
明治維新後の1872年(明治5年)には、真面目な人柄が認められ、同郷の「黒田清隆」(くろだきよたか)の推挙で、陸軍の少佐になりました。22歳の若さで上級幹部への抜擢は、当時としても異例の早さ。1876年(明治9年)には小倉(こくら:現在の福岡県北九州市小倉北区・小倉南区)第14連隊の連隊長心得として、九州へ赴任します。
ここまでは順調でしたが、1878年(明治11年)に「西郷隆盛」(さいごうたかもり)が明治政府に反乱を起こした西南戦争で、敵兵に連隊旗を奪われてしまいます。軍人としては大失態で、乃木希典は責任を取って自決しようとしましたが、無二の親友である「児玉源太郎」(こだまげんたろう)に必死に止められて思いとどまりました。
その後もエリートコースを歩み続けた乃木希典は、1879年(明治12年)に歩兵第1連隊の連隊長になります。この頃、歩兵第1連隊は、児玉源太郎が連隊長を務める歩兵第2連隊とよく合同訓練を行いました。しかし乃木希典は正面攻撃を多用したため、いつも第2連隊の奇襲に敗れ、そのたびに児玉源太郎から「乃木は軍戦(いくさ)下手だからなあ」とからかわれたと言われます。
1894年(明治27年)8月の日清戦争では、乃木希典は歩兵第1旅団長として旅順攻撃に参加。西方から攻撃を仕掛ける第1師団を受け持ち、旅順はわずか1日で陥落しました。
戦後は中将となり、陸軍第2師団長として台湾(たいわん)へ出兵。1896年(明治29年)には台湾総督(たいわんそうとく:台湾統治を担う行政府の長官)に命じられ、妻の「乃木静子」(のぎしずこ)を伴って赴任。台湾の治安確立・島民の教育・雇用の創生などに尽力しました。しかし、翌1898年(明治31年)に病気で台湾総督の地位を解かれ、親友・児玉源太郎へ後任を譲っています。
病気がちであった乃木希典は休職と復職を繰り返し、1902年(明治35年)には、予備役(よびえき:軍を退役し、別の職に就いた人のこと)となります。誰もが乃木希典の軍人人生は、これで終わったと思いました。しかし1904年(明治37年)2月 、乃木希典は再び司令官として現役へ復帰。
理由は、ロシア帝国との開戦の可能性が高まるなか、実戦経験を持つ陸軍司令官が不足していたこと、そして元帥「山縣有朋」(やまがたありとも)が、長州閥(ちょうしゅうばつ:長州藩出身者で重職を独占すること)の司令官が少ないことに不満を持ち、同郷の乃木希典を強引に司令官として引き戻したからでした。
その直後に日露戦争が勃発。このとき乃木希典に与えられたのは、奇しくも10年前にわずか1日で陥落させた旅順要塞を再び攻略するという作戦でした。乃木希典は大将に任じられ、第3軍を率いて6月1日に戦地に出航しました。
旅順要塞が、10年前とは違い強化されて東洋最大の要塞と呼ぶべき軍事拠点になっていたことは、乃木希典も知っていました。とはいえ、10年前の日清戦争時の記憶がありますから、「戦死者10,000人くらいで陥落できるであろう」と周囲に語っていたとされます。
ところが戦闘が始まると、最初の攻撃で日本軍は16,000名もの兵士を失ってしまいました。理由は単純。乃木希典が率いた第3軍の作戦が、砲撃したあとに兵士を正面から突撃させるという、日清戦争で成功した古い戦術そのままだったのです。これは乃木希典だけの責任ではなく、具体的な作戦を立案した第3軍参謀長の「伊地知知幸」(いじちともゆき)少将らの判断ミスも大きな要因。
しかも第3軍は、旅順要塞までほとんど届かない旧式の大砲しか与えられておらず、これで東洋最大の要塞を攻略するという計画自体が無謀だったのです。それでも乃木希典は何度も同戦術で攻撃を仕掛け、いたずらに兵力を損耗していきました。
乃木希典率いる陸軍が、旅順要塞攻略に苦戦しているのを見て、海軍からは「旅順港を見下ろす203高地を落とせば、陸上から旅順艦隊を攻撃できる」という申し入れがあり、艦載砲が陸に揚げられ、「203高地攻略戦」を開始。
それでも第3軍は正面攻撃をやめません。11月26日の第3回総攻撃の際、約3,000名の兵士による「白襷隊」(しろだすきたい)が結成され、夜の闇に紛れて正面から旅順要塞へ突撃します。しかしロシア帝国軍の反撃に遭い、約半数の兵士を失うという事態を招いてしまいました。
そして、ようやく乃木希典は203高地攻略に方針を転換。激しい戦闘ののち、ようやく203高地を占拠しますが、すぐロシア帝国軍に奪還されてしまいます。
これを知って乃木希典の基地に駆け付けたのが、児玉源太郎です。旧友・児玉源太郎は、断腸の思いで乃木希典から第3軍の指揮権を一時的に取り上げ、日本から運んできた新式の要塞砲(ようさいほう)を大量に投入。地形が変わるほどの激しい攻撃を加え、ついに203高地の陥落に成功したのです。
203高地を抑えられ、もはや旅順要塞は裸同然。1905年(明治38年)1月1日、旅順要塞に白旗が上がりました。ロシア帝国軍が降伏を宣言したのです。
1月5日、乃木希典はロシア帝国軍司令官「アナトーリイ・ステッセル」中将と、旅順郊外「水師営」(すいしえい)の農家で会談を行いました。通常、敗軍の将に帯剣(たいけん:刀剣を持つこと)は許されませんが、乃木希典は帯剣を許したどころか、酒を酌み交わして互いの将兵の奮闘と、亡くなった兵に悔やみの言葉を述べています。
さらに会談の途中、海外の報道員が写真を撮ろうとすると、乃木希典は写真を撮らないよう厳命。「敗者の恥を晒すような写真を撮るのは、ステッセル殿に失礼である。日本の武士道はそれを許さない。ただし、会見が終わり、友人として並んだ姿なら写しても良い」と言い、1枚だけ撮影を許可しました。その写真は今も、水師営の記念写真として残されています。
日露戦争のあと、1907年(明治40年)には「学習院」(がくしゅういん:皇族・華族[かぞく:旧貴族・大名層]の子弟のために設立された教育機関。現在の学習院大学[がくしゅういんだいがく]の前身)の院長に就任。
この頃になると乃木希典は、自分の天命を教育に見出し、以降は若者の育成に力を注ぎました。乃木希典は学習院の生徒と寝食をともにし、親しく声をかけ、よくダジャレを飛ばして笑わせます。また、教育の一環として生徒達に日本刀を持たせ、生きた豚を切らせたこともありました。このユニークな教育方法は「乃木式教育」と呼ばれ、世間では賛否両論が起こることに。しかし学習院の生徒達は、そんな乃木希典を心から慕い、敬愛の念を込めて「うちのオヤジ」と呼んでいました。
1912年(明治45年)7月30日に122代・明治天皇が崩御すると、同1912年(大正元年)9月13日に行われた「大葬の儀」(たいそうのぎ:天皇の葬儀)が済んだ夜、赤坂の自宅で妻・静子とともに自決を遂げ殉死。62年の波乱に富んだ人生に幕を下ろしたのです。
訃報を知った多くの国民は、深い悲しみに打ちひしがれました。学習院で教えを受けていた「裕仁親王」(ひろひとしんのう:のちの124代・昭和天皇[しょうわてんのう])も、涙を浮かべてその死を惜しんだ1人。5日後に行われた乃木夫妻の葬儀で、自宅から葬儀場へ続く沿道は200,000人の国民で埋め尽くされました。
また訃報は外国にも伝えられ、葬儀には多くの外国人も参列したことから、「世界葬」とも紹介されています。
乃木希典の死を受けて、その後、乃木希典を祭神として祀った「乃木神社」(のぎじんじゃ:東京都港区)が建立されました。
乃木神社は、自決した邸宅の隣に建てられ、付近の坂も「乃木坂」(のぎざか)と命名され、日本のために尽くした乃木希典の功績を現在に伝えています。