江戸時代末期、日本では欧米諸国と不平等条約を結ばされており、明治時代初期には条約改正が大きな外交課題となっていました。そんななか、1886年(明治19年)に「ノルマントン号事件」が発生します。イギリスの貨物船「ノルマントン号」が、日本沿海において座礁沈没する事故が起こり、その際にイギリス人船長・船員だけが脱出。日本人乗客25名は全員が命を落としたのです。日本人に対する人種差別が疑われましたが、領事裁判権によってイギリス領事に裁かれた裁判において、イギリス人船長らは無罪。この判決を知った日本国民は、明治政府に対し、不平等条約改正を強く求めるようになっていきます。
1853年(嘉永6年)の黒船来航から開国が進んでいった日本では、1858年(安政5年)にアメリカとの間に「日米修好通商条約」が締結されます。
この頃、イギリス・フランス連合軍に清(しん:17~20世紀初頭の中国王朝)が敗れる「アロー戦争」が起こっており、清国は不平等条約である「天津条約」を結ばされていました。
アメリカ総領事「タウンゼント・ハリス」は、イギリス・フランス軍の連合軍がそのまま日本へ侵攻してくると主張。そこで、アメリカと先に条約を結んでおけば、イギリス側の要求を日本が納得できるところまで抑えるように交渉するとのタウンゼント・ハリスの説得により、日米修好通商条約を締結します。そして、これに端を発し、その後オランダ、ロシア帝国、イギリス、フランスとも、同様の通商条約を締結。
これらは「安政五ヵ国条約」(あんせいのごかこくじょうやく)と呼ばれ、欧米諸国の領事裁判権の認可、日本側に関税自主権がない点など、日本にとって不利な不平等条約。しかし当時の江戸幕府では、関税自主権がないことでどんな不利益が起こるかを把握しきれておらず、領事裁判権についても、日本側で外国人の違反・不始末を裁いたり、管理したりすることを負担と捉えていました。
このように、江戸幕府には欧米諸国に不平等条約を強要されたという意識すら全くなかったのです。
しかしその後、不平等条約によって様々な弊害が生まれます。1877年(明治10年)、イギリス商人「ジョン・ハートレー」が麻薬・アヘンを日本国内へ密輸しようとする「ハートレー事件」が発生。輸入禁制品の麻薬・アヘンは、税関にて見つかったのですが、ジョン・ハートレーは薬用のためだと主張。イギリス領事裁判法廷もイギリスの法令には違反していないとして、ジョン・ハートレーを無罪としました。
また、1878年(明治11年)から、コレラが流行します。コレラは開国以降しばしば上陸するようになり、治療しなければ患者はあっけなく死亡することから、「コロリ」と呼ばれて恐れられた重病。このときの流行では、日本国内で100,000人以上の死者が出ました。
そのため、日本ではコレラの侵入を防ぐため、検疫規則をつくります。ところが、駐日イギリス公使の「ハリー・バークス」は、イギリス人は日本の規則に従う必要はないと主張。さらに、ドイツ船「ヘスペリア号」が、コレラ流行地である清から直航してきますが、日本の検疫に従わず、強引に横浜へ入港する騒動も起こりました。
様々な不平等条約の問題が明らかになるにつれて、日本国内では条約を改正しないことには独立国家としての体裁が保てない、という考えが強くなっていきます。
1879年(明治12年)、外務卿(外務大臣に相当)に「井上馨」(いのうえかおる)が就任すると、風俗習慣を西洋化する「欧化政策」を採用。欧米諸国から文明国として認めさせることで、不平等条約改正交渉を促進しようと考えたのです。
その一環として、1883年(明治16年)に外国貴賓の接待、宿泊を目的とした「鹿鳴館」(ろくめいかん:東京都千代田区)が完成。洋装での豪華なダンスパーティーが毎晩のように開かれますが、国内外から「ヨーロッパの猿真似だ」と非難の声もあがりました。
また1886年(明治19年)5月、井上馨は欧米諸国の代表を集めて、不平等条約の改正の会議を開催します。しかしイギリスの反対によって、領事裁判権を撤廃して関税自主権を一部回復する代わりに、日本での裁判に外国人判事を任用するという妥協案を出すことに。すると、今度は明治政府内から「日本の主権の侵害である」と反対意見が出され、改正交渉は難航しました。
1886年(明治19年)10月24日、横浜から神戸へ向かっていたイギリス船「ノルマントン号」が、熊野灘(くまのなだ:和歌山県の紀伊半島南端から三重県にかけての海域)で沈没する事故が起こります。イギリス人船長と船員は4隻の救命ボートに乗り、2隻が漂着。残る2隻も地元漁師によって救助され、合計26名が助けられました。
しかしその後、日本人船客25名全員が行方不明になっていることが分かります。また、同時に有色人種(白人以外の人種)の水夫13名も死亡しており、あまりに不自然な状況から、世論は西洋人による人種差別によって見殺しにされたと激怒。また、水死体があがらなかったこともあり、乗客は船倉に閉じ込められたのではないかとさえ推測されました。
船の事故においては、船長・船員より、乗客が優先されるのが一般的。しかし、このノルマントン号事件を審判したイギリス領事館は、船長の「ジョン・ウィリアム・ドレイク」以下、全員に無罪判決を下します。
欧化政策を進めていた井上馨も、世論の高まりを無視することはできず、沈没したノルマントン号の捜査を行うことを決定。ノルマントン号の沈没場所は、漁業者の証言で勝浦港(かつうらこう:和歌山県那智勝浦町)沖と推定されましたが、水深が深すぎて、十分な捜索ができませんでした。
また、明治政府は兵庫県知事に、ジョン・ウィリアム・ドレイク船長以下を殺人罪でイギリス領事館に告訴するよう指示。しかし、横浜のイギリス領事裁判所の判決は、ジョン・ウィリアム・ドレイク船長の職務怠慢罪による禁錮3ヵ月という、ごく軽いものでした。
井上馨は、それまで不平等条約の部分的な改正交渉を進めていましたが、ノルマントン号事件ののち、日本国内では領事裁判権の完全撤廃などを求める声が大きくなります。
そのため、条約改正会議で外国人判事を任用するという妥協案を出していることが明るみに出ると、国内中から批判が噴出。その後の条約改正会議でも、交渉の折り合いが付かず、井上馨は外務大臣を辞任し、欧化政策も頓挫しました。
しかし、この時期に日本は「大日本帝国憲法」(だいにっぽんていこくけんぽう)を発布して、アジアで唯一の立憲国家(憲法に基づいて議会で政治を行う国家)となります。
また、1891年(明治24年)の「大津事件」(おおつじけん:警備中の巡査による、来日中のロシア帝国皇太子への暗殺未遂事件)では、犯人を死刑にするように明治政府が司法機関へ強く圧力をかけるものの、司法機関は明治政府の圧力を跳ね除けて、日本の法律に則して無期懲役としたことで、司法制度が確立した日本に対する国際的な信頼も高まっていきます。
さらに、南米メキシコと新規の平等条約(日墨修好通商条約)を締結。先例をつくることで不平等条約改正の道筋を付けました。