明治時代の重要用語

欧化政策 
/ホームメイト

「欧化政策」(おうかせいさく)とは、明治時代前期、日本が文明国であることを欧米諸国へ示すために、欧米の生活・文化を取り入れようとした政策のことです。実はこの欧化政策の主目的は、不平等条約改正交渉を有利に進めること。その象徴が、外務卿(がいむきょう:外務大臣に相当)の「井上馨」(いのうえかおる)が熱心に行った、「鹿鳴館」(ろくめいかん)に外国高官を招いての舞踏会でした。この欧化政策は表面的な欧米化に過ぎず、不平等条約改正の失敗とともに終わっています。

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「欧化政策」(おうかせいさく)とは、明治時代前期、日本が文明国であることを欧米諸国へ示すために、欧米の生活・文化を取り入れようとした政策のことです。実はこの欧化政策の主目的は、不平等条約改正交渉を有利に進めること。その象徴が、外務卿(がいむきょう:外務大臣に相当)の「井上馨」(いのうえかおる)が熱心に行った、「鹿鳴館」(ろくめいかん)に外国高官を招いての舞踏会でした。この欧化政策は表面的な欧米化に過ぎず、不平等条約改正の失敗とともに終わっています。

欧化政策の背景

欧化政策は不平等条約改正交渉の一環

明治政府による近代国家体制への整備が徐々に整えられていく一方、最大の外交課題である幕末に結ばれた欧米列強との不平等条約改正は、遅々として進みませんでした。旧江戸幕府から引き継いだこの不平等条約は、国家の主権を大きく制約し、日本国内の産業発展をも妨げる要因になっていたのです。

当時の外務卿・井上馨が、風俗習慣を西欧化して日本の開花ぶりを外国に示す必要があると考えたのも、その解決を目指して欧米諸国との対等な関係性を築く不平等条約改正のためでした。簡単に当時の不平等条約の問題点と、欧化政策に至るまでの明治政府による動きを解説します。

幕末に結ばれた条約は、特にどこが問題だったのか

そもそも条約とは、文書の形でなされる国家間の法的な約束です。条約を結ぶ際は、国が選任した全権代表によって交渉が行われ、条約文の内容が確定したとき、調印書が作成されます。調印書の内容に国が同意表明するひとつが批准(ひじゅん)です。

条約の内容について国内で審議され、議会・元首(げんしゅ:国の首長)の同意・承認がなされると批准書が作成されます。その後、締約相手国とその批准書を交換したり、国際機関に批准書を寄託したりすることによって、条約は国際的に正式に確認され効力が発生するのです。

日本が200年以上に及んだ鎖国政策から転換し、開国という形で国家間での付き合いがスタートしたのも、この欧米諸国との条約締結によってのことでした。しかし、幕末に旧江戸幕府が欧米諸国と結んだ条約は、どれも欧米列強の脅威を背景に強要される形で、国内での十分な審議もなければ、勅許(ちょっきょ:天皇の許可)も得ないまま結ばれたもの。

例えば、1858年(安政5年)にアメリカとの間で結ばれた「日米修好通商条約」は、次のような内容でした。

  1. 神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大阪の開市
  2. 通商は自由貿易とする
  3. 開港場に居留地(きょりゅうち)を設け、一般外国人の国内旅行を禁じる
  4. 日本に滞在する自国民への領事裁判権を認める
  5. 日本の関税についても日本に関税率の決定権はなく、相互で協議して協定関税を定める

最も問題なのが、4と5で、日本国内で罪を犯したアメリカ人は、アメリカの領事裁判官がアメリカの法律で罰するという領事裁判権(治外法権[ちがいほうけん]のひとつ)と、関税(輸出・輸入にかかる税率)を日本側に自主的に決める権利がない「関税自主権の欠如」が盛り込まれているのです。

そのあと、旧江戸幕府はアメリカに次いで、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも類似の不平等条約を結んでおり、これらは総称して「安政の五ヵ国条約」(あんせいのごかこくじょうやく) と呼ばれています。

欧化政策までの不平等条約改正への動き

井上馨が主導する形で欧化政策を進めるまでに、大きく2回、不平等条約改正への動きがありました。まず、1871~1873年(明治4~6年)に右大臣「岩倉具視」(いわくらともみ)を大使として欧米諸国へ派遣された「岩倉使節団」(いわくらしせつだん)。

不平等条約は1872年(明治5年)から改正交渉が可能であることが定められていたため、岩倉具視らはその予備交渉も目的のひとつとして日本を出発。しかし、最初の訪問先であるアメリカでの不平等条約の改正交渉は全く進展せず、失敗に終わりました。

次に、1876年(明治9年)、外務卿「寺島宗則」(てらしまむねのり)が、関税自主権の回復を目的に外交折衝を行った結果、対日関係に緊密化を求めていたアメリカが同意。

しかし、不平等条約改正には他国の同意も必要であり、対日貿易の中心であったイギリス・ドイツなどの反対により実現せずに終わったのです。寺島宗則のあとに外務卿に就任したのが井上馨で、不平等条約改正を目的とした欧化政策が図られていきます。

欧化政策の概要

鹿鳴館外交

井上馨は、不平等条約の改正交渉を有利にするため、外国要人接待の社交場として、1883年(明治16年)、東京の日比谷に鹿鳴館を建設。イギリス人のお雇い建築家「コンドル」による設計で、総工費は約180,000円。現在の価値にして約36億円です。

これほどまでの大金をつぎ込んだのは、西欧では外交と社交が深く結び付いていることから、日本にも欧米のような文化があり、近代的国家であるとアピールするためでした。そして、この鹿鳴館に海外の要人を招き、連日のように華やかな舞踏会や演奏会が行われ、鹿鳴館外交と呼ばれたのです。

極端な欧化政策への批判

井上馨

井上馨

井上馨は、この鹿鳴館外交のなかで、まず領事裁判権の改正を試みます。その内容は、一部しか開放されていなかった日本国内を外国人にすべて開放する代わりに、領事裁判権を原則として撤廃することと、関税自主権の一部回復でした。

結果として領事裁判権の撤廃に関しては、欧米同様の法典を編纂し、外国人を被告とする裁判に半数以上の外国人判事を採用するという条件付きで調印。

そのため、明治政府内でこれらの条件は国家主権の侵害であるとの激しい批判が巻き起こります。さらに世間の批判を呼んだのが、外国人の歓心を買うため、国立の社交場として鹿鳴館を建設するなど、極端な欧化政策の推進でした。

井上馨が推進した欧化政策においては、社交や上流社会の生活・風俗の欧化から始まり、風俗改良運動や国語のローマ字化を目的とする国字改良運動、さらには外国人との結婚による人種改良論まで飛び出します。

しかし、これらの欧化政策は、官僚・上流社会による上辺だけの西洋化でしかなく、当時の雑誌「日本人」・新聞「日本」などのジャーナリズムは、この欧化政策を受けて明治政府を批判。極端な欧化政策は、多くの国民の反感を買うこととなったのです。

そして、折しも1886年(明治19年)に「ノルマントン号事件」が発生。これはイギリスの汽船ノルマントン号が横浜から神戸に向かう紀州沖で難破し、船長・イギリス人乗務員らは脱出したものの、日本人乗客らが全員死亡した事件です。

これに対し、イギリス領事裁判所の裁判では船長の過失が問われないという結果となり、領事裁判権の完全撤廃を目指さない井上案に反発する声がいっそう高まりました。こうした世論を受け、井上馨は欧化政策による交渉を中止し、外務大臣を辞任したのです。

日本の伝統回帰

欧化政策が進むなかで、こんな動きも生まれます。日本古来の伝統への回帰が主張されるようになったのです。1887年(明治20年)、日本の美術界で「お雇い外国人」として活躍していたアメリカ人の東洋美術研究家「アーネスト・フェロノサ」・思想家「岡倉天心」(おかくらてんしん)を中心に、公立「東京美術学校」(とうきょうびじゅつがっこう:東京都台東区、東京藝術大学[とうきょうげいじゅつだいがく]の前身)が設立されます。

この東京美術学校は日本画科が中心で、当初洋画科は置かれませんでした。さらにこの時期、日本の伝統絵画が「狩野芳崖」(かのうほうがい)・「橋本雅邦」(はしもとがほう)ら狩野派を学んだ画家によって復権。また、和紙・絹布(けんぷ)に、顔料(がんりょう:水・溶剤に溶けない染料)などで描く絵画を、油性絵具で描く西洋画にたいして「日本画」と呼称したことも、1890年(明治23年)前後から始まったのです。

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