「大隈重信」(おおくましげのぶ)は明治時代に活躍した政治家です。最初は京都、長崎で活動する「尊王攘夷」(そんのうじょうい:天皇を尊び、外国人を排斥するという考え方)の志士(しし:志を持つ人物)でしたが、明治政府では財務を担当し、政治改革と殖産興業(しょくさんこうぎょう:近代産業を盛んにし、資本主義を育てようという運動)を進めました。また1882年(明治15年)には、自由民権運動(じゆうみんけんうんどう:国会開設を目的とした政治運動)から生まれた「立憲改進党」(りっけんかいしんとう)、1898年(明治31年)には「憲政党」(けんせいとう)を結成し、日本初の「政党内閣」(せいとうないかく)を成立させたことでも知られます。
大隈家は代々、佐賀藩(さがはん:現在の佐賀県佐賀市)の砲術・築城術を担当する家柄でした。幼い頃から優秀だった大隈重信は7歳で佐賀藩の藩校「弘道館」(こうどうかん)へ入学。
1854年(嘉永7年)、「朱子学」(しゅしがく:江戸幕府が推奨する儒学の一分野)中心の教育に反発し、藩校改革を訴えて退学になりました。
この頃、尊王攘夷思想に目覚めた大隈重信は、佐賀藩に対して尊王攘夷の急先鋒の長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)との和睦と、長州藩と江戸幕府との仲裁を提案。その後は英語と数学を学び、尊王攘夷の志士として京都、長崎を往復する日々を過ごしました。
1867年(慶応3年)には脱藩(だっぱん:藩から勝手に抜け出る重罪)し、江戸幕府第15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)に「大政奉還」(たいせいほうかん:江戸幕府が朝廷へ政権を返上すること)を迫るため、京都へ向かいましたが、計画が露見して長崎に連れ戻されて謹慎処分を受けています。
謹慎直後に画策していた大政奉還が実現。翌1868年(慶応4年/明治元年)、謹慎が解けた大隈重信は、江戸幕府の役人が退去したあとの長崎を管理するため、現地へ派遣されました。しかし、大隈重信をよく知っていた長州藩の「井上馨」(いのうえかおる)が、これだけ優秀な人物を長崎に置いておくのは惜しいと推薦したことで、明治政府へ出仕。
明治政府では、外国官(がいこくかん:外交・領土・貿易などを管轄した省庁)副知事、会計官(かいけいかん:大蔵省の前身)副知事を歴任したのち、大蔵大輔(おおくらたゆう/おおくらたいふ:現在の財務省事務次官)となりました。
1870年(明治3年)には大蔵卿(おおくらきょう:現在の財務大臣に相当)となって「地租改正」(ちそかいせい:地主に土地の所有権を認め、税金を現金で納めるように定めた税制改革)を手がけています。
他にも東京~京都間の鉄道施設計画を主導し、1873年(明治6年)には、オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンで開催された国際博覧会「ウィーン万国博覧会」への参加を進めるなど、日本が先進国の仲間入りをするための施策を次々と実施。
1874年(明治7年)の「台湾出兵」(たいわんしゅっぺい:沖縄漂流民が台湾で殺害された報復として、日本軍が台湾へ侵攻した事件)では、戦費の確保、武器・兵士の輸送、情報収集などを担当する蕃地事務局長官(ばんちじむきょくちょうかん)に就任。
1877年(明治10年)に「西郷隆盛」(さいごうたかもり)が九州で起こした士族(しぞく:旧武士層)反乱「西南戦争」(せいなんせんそう)においても、戦費を調達する征討費総理事務局長官(せいとうひそうりじむきょくちょうかん)となり、財政面から明治政府を支え続けました。
1878年(明治11年)に、それまで明治政府を率いてきた旧薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)の「大久保利通」(おおくぼとしみち)が暗殺されると、明治政府の主導権は長州藩の「伊藤博文」(いとうひろぶみ)へ移りました。
大隈重信はこのとき、死ぬまで伊藤博文に付いていくと宣言。しかし当時、明治政府の中枢を独占していた旧薩摩・長州藩出身者による専制政治に不満を抱いた旧土佐藩(とさはん:現在の高知県高知市)の「板垣退助」(いたがきたいすけ)らが「民選議院設立建白書」(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ:人民によって選ばれた議員が政治を行う体制をつくるための提案書)を提出。
こうして起きた国民的な運動を、自由民権運動と呼びます。これを受け、明治政府の内部でも国会開設に向けた動きが加速。大隈重信は、すぐに憲法を制定して国会を開設し、イギリスを手本として「君主が君臨すれども統治せず」という議会中心の政党政治を行うよう主張。
一方、伊藤博文は、君主自らが政治を行うドイツ式の政治体制に固執したため、2人は真っ向から対立します。同じ頃、薩摩藩出身の「黒田清隆」(くろだきよたか)が、同郷の政商(せいしょう:政府と癒着した豪商)「五代友厚」(ごだいともあつ)に、官有物(かんゆうぶつ:政府所有の土地・工場など)を格安で払い下げていたことが発覚して大問題に。
このとき、誰が官有物の払い下げ金額を世間へ暴露したのかは、現在も分かっていません。しかし、伊藤博文はこの暴露を大隈重信の計略と決め付け、1881年(明治14年)、伊藤博文は大隈重信を明治政府から追放してしまいました(明治十四年の政変)。
大隈重信は、明治政府から追放された翌1882年(明治15年)に、立憲改進党を結成して総理(そうり:取りまとめ役)となります。
同年、学問の独立を目指して「東京専門学校」(とうきょうせんもんがっこう:現在の早稲田大学の前身)を創設。1888年(明治21年)には、立憲改進党を脱党して外務大臣として明治政府へ復帰し、江戸時代に締結された列強諸国との不平等条約の改正交渉を担当します。
しかし翌1889年(明治22年)、交渉の条件として大隈重信が列強諸国へ提示した、外国人を日本の裁判に参加させるという条件を不服としたテロリストに爆弾を投げ付けられ、一命はとりとめたものの右足を失うという大怪我をしてしまいました(大隈重信遭難事件)。
1890年(明治23年)、日本初の国会「帝国議会」(ていこくぎかい)が発足。大隈重信は1891年(明治24年)に立憲改進党へ復帰し、事実上の党首に就任。
1896年(明治29年)、立憲改進党は諸党派と合流して「進歩党」(しんぽとう)を結成し、国会内での存在感を高めます。同年6月、内閣総理大臣の伊藤博文は、大隈重信を明治政府へ再度呼び戻すことを決定。
これは当時、内務大臣として明治政府内での発言力を高めていた「自由党」(じゆうとう)の党首・板垣退助の力を抑えるためでした。大隈重信は、伊藤博文の次に総理大臣となった「松方正義」(まつかたまさよし)のもとで外務大臣に就任。
しかし1898年(明治31年)の第5回衆議院議員総選挙で、進歩党が与党の第一党となると、大隈重信はライバルであった板垣退助の自由党と合流して憲政党を結成。大隈重信は、内閣総理大臣兼外務大臣、板垣退助は内務大臣に就任。
このとき、陸海軍大臣を除くすべての大臣はすべて憲政党出身者が独占しており、これが日本初の政党内閣だと言われています。この内閣は2人の名を取って「隈板内閣」(わいはんないかく)と呼ばれました。しかし憲政党の内部調整に苦しみ、隈板内閣はわずか4ヵ月で崩壊してしまいます。
同年末、憲政党内の旧進歩党員は大隈重信を中心に「憲政本党」(けんせいほんとう)を結成。
一方、旧自由党員は伊藤博文とともに「立憲政友会」(りっけんせいゆうかい)を結成し、再び分裂します。両党は国会内で議席数を競いましたが、この頃には憲政本党に勢いはありませんでした。1907年(明治40年)の憲政本党大会で、大隈重信は憲政本党の総理辞任を宣言。早稲田大学総長に就任します。
この時期における早稲田大学総長就任は、学問はすべての権力から独立すべきであるという「学問の独立」を目指した、大隈重信なりの筋の通し方であったと言われます。政界を離れた大隈重信は多くの本を書いたり、演説会を開催したりして国民文化の向上に尽力しました。
しかし1914年(大正3年)に「山本権兵衛」(やまもとごんべえ)内閣が総辞職すると、再び大隈重信の政界復帰を求める声が高まってきました。76歳の大隈重信は何度も断りましたが、周囲の声に抗えず、16年ぶりに総理大臣へ就任しています。
同年、「第一次世界大戦」(だいいちじせかいたいせん)が勃発すると、翌1915年(大正4年)には中華民国(ちゅうかみんこく:1912年に成立した中国の政権)に対して権益の譲渡などを求める「対華二十一箇条要求」(たいかにじゅういちかじょうようきゅう)を提出し、日本の陸海軍の拡大に努めました。
しかし同年10月、内務大臣が起こした買収事件の責任を取って123代「大正天皇」(たいしょうてんのう)へ辞表を提出しますが、大正天皇の「即位礼」(そくいれい:天皇就任の儀式)の直前での内閣総理大臣の辞職が好ましくないため却下されます。
1916年(大正5年)、大隈重信は再びテロリストから爆弾を投げ付けられますが、このときは不発のために無事。同年、ようやく大隈重信の辞意が認められ、78歳で内閣総理大臣を退任することになります。退任後も様々な政党から総裁就任を依頼されましたが、すべて断わりました。
政界から完全に離れた大隈重信は、新聞などで論評活動を行いましたが、1921年(大正10年)には持病が悪化し、翌1922年(大正11年)に死去。1週間後に行われた国民葬には300,000人の一般市民が参列し、多くの国民が偉大な政治家との別れを惜しみました。