1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)に勝利した「徳川家康」(とくがわいえやす)が江戸幕府を開いたことから、以後260年以上にわたる江戸時代が始まります。しかし江戸時代初期、まだ大坂には「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)が築いた「大坂城」(おおさかじょう:大阪府大阪市)が存在し豊臣家が勢力を維持。決して江戸幕府は盤石の政権ではなかったのです。徳川家康は「大坂の陣」(おおさかのじん)で豊臣家を滅ぼし大坂城を破壊しましたが、その後、西国の大名を監視するために大坂城を再建。江戸幕府が直接管理する「城番」(じょうばん) とし、城主として信頼できる大名を「大坂城代」(おおさかじょうだい)として派遣しました。大坂城代は江戸幕府将軍直属の重要なポストであり、当時の出世コースの入り口でもあったのです。
1585年(天正13年)に豊臣秀吉によって建てられた大坂城は、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」(おおさかなつのじん)で焼失。
これによって豊臣家は滅亡し、徳川家が名実ともに天下統一を果たしました。
そして1619年(元和5年)、江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)は、大坂を「直轄地」(ちょっかつち:江戸幕府が直接支配する土地)とし、戦乱で荒廃した町の復興と大坂城の再建に取りかかります。
城の再建工事は約10年かけて行われ、「江戸城」(えどじょう:東京都千代田区)・「二条城」(にじょうじょう:京都府京都市中京区)・「駿府城」(すんぷじょう:静岡県静岡市)とともに江戸幕府将軍直轄の城番となりました。
江戸幕府は、この大坂城を中心として、江戸に次ぐ強大な軍事拠点を作るため、「尼崎藩」(あまがさきはん)など、大坂周辺の藩に次々と有力な「譜代大名」(ふだいだいみょう:関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えた大名)を配置。
大坂城には、城主として「大坂城代」を派遣します。江戸幕府のなかで大坂城代は、江戸幕府将軍を補佐して政治を行う「老中」(ろうじゅう)、老中を補佐する「若年寄」(わかどしより)などと並ぶ江戸幕府将軍直属の役職でした。
これらの役職は、もちろん幕政の中枢であり、徳川家への忠誠心に篤い譜代大名から選出。江戸時代中期以降になると、「寺社奉行」(じしゃぶぎょう:寺社、神社の管理)の職を経て、大坂城代を務めることは、老中へ続く出世コースとなりました。
初代大坂城代は、1619年(元和5年)に派遣された「高槻藩」(たかつきはん:現在の大阪府高槻市)藩主「内藤信正」(ないとうのぶまさ)。
以降、幕末までに延べ70名がその任に就いています。大坂城代に選ばれるのは、譜代大名のなかでも「石高」(こくだか:領地内で収穫できる米の量。大名の経済力を示す)が5~6万石の者で、任期は定められず。
1万石の「役知」(やくち:大坂城代に在職中に支給される領地)と大坂城の内外に屋敷が与えられ、赴任地に妻子を帯同することも許されました。大坂城代の主な役割は、大坂城の防衛と畿内(きない)の警備、治安維持。
畿内とは、山城国(やましろのくに:現在の京都府)・大和国(やまとのくに:現在の奈良県)・河内国(かわちのくに:現在の大阪府東部)・和泉国(いずみのくに:現在の大阪府西部)・摂津国(せっつのくに:現在の兵庫県)の5ヵ国を指します。
さらに、有力な「外様大名」(とざまだいみょう:関ヶ原の戦い以降に徳川家に仕えた大名)が多い、西日本の動静を監視することも重要な役割でした。大坂城代の下には、これらの任務を分担する役人が置かれ、大坂城の防衛の軍事面は「大坂定番」(おおさかじょうばん)と呼ばれる2名の役人が担当。
一方、町の治安維持などの行政面は「町奉行」(まちぶぎょう)2名がそれぞれ担いました。
1626年(寛永3年)から22年間も大坂城代を務めた「阿部正次」(あべまさつぐ)は、肥前国(ひぜんのくに:現在の佐賀県)で発生した、キリスト教徒の反乱「島原の乱」(しまばらのらん)の際、反乱軍の動きをいち早く察知。
江戸幕府の指示を待たずに九州の諸大名に出兵を命じます。その臨機応変な対応は、大坂城代の鑑であるとして、江戸幕府第3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)にも称賛されました。