江戸時代末期、薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)藩士に生まれ、「西郷隆盛」(さいごうたかもり)と兄弟のように育った「大山巌」(おおやまいわお)は、西洋砲術において免許皆伝の腕前を持ち、軍人として頭角を現していきました。明治維新後はヨーロッパで兵器の研究を行うとともにドイツ式の軍制についても学び、日本陸軍の近代化を推進。「日清戦争」(にっしんせんそう)と「日露戦争」(にちろせんそう)では司令官として日本を勝利に導き、「名将軍」としての名を内外にとどろかせます。プライベートでは大の愛妻家として知られ、慈善活動・女子教育の普及に奔走する妻を理解し、しっかりと支える良き夫でもありました。
1842年(天保13年)、薩摩藩に生まれた大山巌は、幼名を「弥助」(やすけ)と言いました。父親の「大山綱昌」(おおやまつなまさ)と西郷隆盛の父親は兄弟で、大山巌は西郷隆盛と従兄弟同士。
幼い頃に父親を亡くし、15歳年上の西郷隆盛から多くの教育を受けて育った大山巌は、1855年(安政2年)に江戸へ出ると、「倒幕運動」(とうばくうんどう:江戸幕府を倒す運動)に参加。
軍人としての初陣は1863年(文久3年)に薩摩藩がイギリス軍艦と戦った「薩英戦争」でした。ここでイギリス軍の進んだ兵器を目の当たりにした大山巌は、「このままでは欧米列強に対抗できない」という危機意識を持ち、西洋砲術を日本に広めた「江川太郎左衛門」(えがわたろうざえもん)の私塾で砲術を学びます。
その後、旧江戸幕府軍と明治政府軍が戦った「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では砲兵隊長として明治政府軍に参戦するなど、幕末から明治維新に至る激動の時代に、数多くの戦場に立つこととなりました。
明治維新後の大山巌は、日本陸軍創設のため1869年(明治2年)より再三にわたりヨーロッパへ派遣されます。プロイセン王国(現在のドイツ)とフランスが戦った「普仏戦争」(ふふつせんそう)を視察しパリの陥落を見たのち、最先端の兵器の開発研究に没頭。
帰国後は陸軍で出世を重ねました。ところが1877年(明治10年)、盟友・西郷隆盛ら旧薩摩藩士が明治政府に反旗を翻した「西南戦争」(せいなんせんそう)が勃発。大義名分を重んじる大山巌は明治政府に対する忠節を守り、西郷隆盛をはじめ故郷の旧知の者達を敵に回して戦わざるを得ませんでした。
1885年(明治18年)、初代内閣総理大臣「伊藤博文」(いとうひろぶみ)により初代陸軍大臣に任命されると、これまでのフランス式の軍制を廃し、ドイツを手本とする軍制改革に着手。兵器の国産化を推進するなど、陸軍近代化のけん引役を担ったのです。
さらに1894年(明治27年)に始まる「日清戦争」(にっしんせんそう)では、第2軍司令官として戦地へ赴き、勝利に貢献しました。日清戦争後は陸軍の最高機関「参謀本部」(さんぼうほんぶ)の長官である参謀総長など、要職を歴任。
1904年(明治37年)に起きた「日露戦争」(にちろせんそう)では、戦地における総司令官として日本を勝利に導き、同じ薩摩藩出身で海軍の連合艦隊司令長官を務めた「東郷平八郎」(とうごうへいはちろう)と並び、「陸の大山、海の東郷」と称えられました。
大山巌の最初の妻は、4人目の娘が誕生して間もなく、病死。しばらくは大山巌の姉が娘達の面倒を見ていましたが、姉は「女に学問はいらない」という価値観の持ち主で、ヨーロッパの社交界で活躍する女性の姿に感銘を受けていた大山巌とは教育方針が合いませんでした。
そんなときに出会ったのが、2人目の妻となる「山川捨松」(やまかわすてまつ)です。山川捨松は、1871年(明治4年)、わずか11歳でアメリカへ渡った日本初の女子留学生達のひとり。
アメリカの名門「ヴァッサー大学」で女子教育について学び、学士号を取得した初の日本人女性であり、看護師資格まで取得した才女でしたが、薩摩の宿敵である旧会津藩(あいづはん:現在の福島県会津若松市)の士族(しぞく:旧武士層)の出身であったため、周囲は2人の結婚に大反対。しかし、価値観を同じくした2人は、その反対を押し切って結婚します。
大山捨松は、政府高官・大山巌の妻としての地位と自らの才知を活かし、慈善活動・看護師養成所の支援などに尽力。ともにアメリカに留学した「津田梅子」(つだうめこ)と「女子英学塾」(じょしえいがくじゅく:現在の津田塾大学)設立に奔走するなど、女子教育の向上に心血を注ぎました。一方、温厚な人柄で知られた大山巌は、妻・大山捨松を支え、生涯仲睦まじい夫婦であったと伝えられます。