室町時代の重要用語

楽市楽座 
/ホームメイト

「楽市楽座」とは、戦国時代から江戸時代にかけて、各地の戦国大名が自分の領地を繁栄させるために行った経済政策です。それまで商工業者が商いをするためには、特定の組合に属したり税金を払ったりする必要がありました。また各地に関所(せきしょ:交通の要所で徴税や検問をする施設)が設置され、物流の大きな妨げになっていたのです。しかし楽市楽座令により、誰もが自由に往来し、商売することが可能になりました。特に有名なのが、「織田信長」が行った楽市楽座。抜群の行動力と斬新な発想力を持つ織田信長は、天下統一を成し遂げるには、武力だけでなく経済力も必要だと考えたのです。

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楽市楽座 
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「楽市楽座」とは、戦国時代から江戸時代にかけて、各地の戦国大名が自分の領地を繁栄させるために行った経済政策です。それまで商工業者が商いをするためには、特定の組合に属したり税金を払ったりする必要がありました。また各地に関所(せきしょ:交通の要所で徴税や検問をする施設)が設置され、物流の大きな妨げになっていたのです。しかし楽市楽座令により、誰もが自由に往来し、商売することが可能になりました。特に有名なのが、「織田信長」が行った楽市楽座。抜群の行動力と斬新な発想力を持つ織田信長は、天下統一を成し遂げるには、武力だけでなく経済力も必要だと考えたのです。

自由市場経済の幕開け

自由を表す「楽」の文字

楽市楽座ができる前は、各地を支配する大名・領主・寺社は自分の領地に関所を設け、物資の流通や人馬の往来に税金を課していました。京都から大阪までの淀川沿いには約400ヵ所、伊勢神宮の参宮街道では桑名と四日市を結ぶわずか18kmの間にさえ60ヵ所の関所があり、行き交う商人や旅人はすべての関所で通行税を支払う必要がありました。

また、平安時代から戦国時代までは、商人や職人などの同業者が「座」(ざ)という組合を結成。この組合に属し、土地の所有者である公家や寺社などに場所代として税金を納めることで、特定地域における製造や営業活動を独占できました。

つまり、組合員でなければ店を出すことも許されなかったのです。当然、座に属さない新興商工業者も、自分達にも販売する権利を与えてほしいと要求します。

そこで、自由な経済活動を通して城下町を発展させたいと考えた戦国大名は、座の組合員の特権を廃止し、税金も免除。楽市楽座の「楽」とは、規制が取り払われて自由になることを意味しています。つまり楽市楽座とは、市場税の免除と、座の廃止を同時に行う政策なのです。

織田信長の先駆者 六角定頼

六角定頼

六角定頼

楽市楽座は、一般的に織田信長が行った政策として有名ですが、もともと織田信長が創始者ではありません。初めて行ったのは「六角定頼」(ろっかくさだより)という近江(おうみ:現在の滋賀県)の守護大名

六角定頼は、家臣達を自分の本拠地である城下に集めて住まわせる「城割り」(しろわり)を最初に行った人物です。これは、のちに徳川幕府が発令した「一国一城令」(いっこくいちじょうれい:大名の居城を除くすべての城を取り壊す命令)のルーツとなりました。

六角定頼は安土(現在の滋賀県近江八幡市)にあった観音寺城(かんのんじじょう)の城下町・石寺で、1549年(天文18年)に楽市令を発布しています。こうして多くの商人を城下に集約させたことで、石寺は一大商業都市として賑わいました。

知られざる名君 今川氏真

また駿河・遠江(するが・とおとうみ:現在の静岡県中西部)の武将「今川氏真」(いまがわうじざね)も、織田信長に先駆けて楽市楽座を行った人物です。父の「今川義元」(いまがわよしもと)が「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で織田信長に討ち取られたあと、国を捨て今川家をつぶしたとされますが、実は知られざる名君として地元で慕われていたのです。

今川氏真が1566年(永禄9年)に発布したのが、「富士大宮楽市令」(ふじおおみやらくいちれい)。富士大宮(現在の静岡県藤宮市)で広く信仰を集めていた浅間大社(せんげんたいしゃ)の門前は全国から訪れる巡礼者で賑わい、こうした人々に商いをするための六斎市(ろくさいいち:毎月6回開催された定期市場)が開かれていました。

ところが不法取引が絶えず、市場での売買には税金が徴収され、さらに浅間大社の門前には関所まで設置されていたため、自由で安全な商売や往来ができていませんでした。そこで今川氏真は六斎市を楽市とし、課税と関所を停止。この富士大宮を参考にして、さらに発展させたのが織田信長の楽市令だったのです。

織田信長の楽市楽座令

はじまりは岐阜

織田信長

織田信長

1567年(永禄10年)、尾張(おわり:現在の愛知県西部)の小大名に過ぎなかった織田信長は、美濃(みの:現在の岐阜県南部)の大名「斎藤龍興」(さいとうたつおき:斎藤道三[さいとうどうさん]の孫)が立てこもる稲葉山城(いなばやまじょう:現在の岐阜城)を攻略し、美濃を平定しました。

この勝利を機に織田信長は稲葉山城を岐阜城と改称し、ここを拠点として天下統一への第一歩を踏み出します。

そのために、まず城下町の復興と経済発展が不可欠だと考えた織田信長は、一枚の「制札」(せいさつ:広く一般に知らせるための立て札)を出します。そこには、市場においてそれまで払わなければならなかった税の免除と、誰でも商売できることなどが書かれていました。これが、織田信長が最初に発した楽市楽座令です。

物流を阻害する関所を撤廃

続く1568年(永禄11年)には、人や物の往来の妨げとなる関所を撤廃。領地内のあらゆる場所で交通の自由化を図ります。

織田信長の勢力範囲が尾張・美濃から伊勢(いせ:現在の三重県南部)・三河(みかわ:現在の愛知県東部)・畿内(きない:京都を中心とする関西一円)・越前(えちぜん:現在の福井県北部)へと拡大するにしたがい、廃止される関所も増えていきました。

さらに道路の拡幅、今で言うインフラの整備も行われます。これらの政策は、商人だけでなく織田信長自身にも大きなメリットがありました。合戦の際には武器や馬、食料など大量の物資を移動させる必要があり、そのためには商人の協力と整備された道路が不可欠だったのです。

天才ならではの政策

織田信長はその後も数度にわたって楽市令を発布しています。織田信長が行った楽市令で最もよく知られているのが、1577年(天正5年)、自身が築城した巨大な安土城(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)の城下町に発布した「安土山下町中掟書」(あづちさんげちょうちゅうおきてがき)という13ヵ条の法令です。

安土の町を楽市として課税を一切行わない、商人は安土に寄宿する、住人にとって負担の大きい普請役(ふしんやく:土木工事の労働要員)や伝馬役(てんまやく:城下町や宿場で輸送用の人馬を提供する義務)を免除するなどの他、よそから来た者も以前からの居住者も区別しないなど、これまでの大名は誰もできなかった徹底した経済政策を打ち出しました。

楽市楽座によって町は大いに賑わい、織田信長は商人達から圧倒的な支持を獲得します。時代のカリスマであった織田信長の革新的な政策として知られる楽市楽座は、旧体制を打ち砕き、既得権の象徴だった座や関所を撤廃し、独占的で閉鎖的な市場に新風を吹き込みました。それは中世から近世への幕開けでもあったのです。

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