「立憲政友会」(りっけんせいゆうかい)は、1900年(明治33年)に「伊藤博文」(いとうひろぶみ)が議会対策として、「板垣退助」(いたがきたいすけ)の自由党の流れを汲む「憲政会」(けんせいかい)党員と結成した政党です。大正時代初期まで、「桂園時代」(けいえんじだい:桂太郎[かつらたろう]と西園寺公望[さいおんじきんもち]が、総理大臣を交互に務めた時代)の一端を担いました。1932年(昭和7年)、当時の総理大臣「犬養毅」(いぬかいつよし)が、陸軍青年将校らによる「五・一五事件」(ごいちごじけん)で暗殺されると勢いは衰え、やがて分裂し解党しました。
1881年(明治14年)に公布された「国会開設の勅諭」(こっかいかいせつのちょくゆ)により、10年後の1890年(明治23年)に国会を開設することが約束されると、日本国内で政党が続々と誕生します。
同年、板垣退助を総理(党首)とした民権派(みんけんは:国会の成立を求めた自由民権運動組織)の「自由党」(じゆうとう)が誕生。翌1882年(明治15年)には、政変により明治政府を追われた「大隈重信」(おおくましげのぶ)を党首とした、同じく民権派の「立憲改進党」(りっけんかいしんとう)が結成されます。
また明治政府側も、政府の御用政党として、同年に「福地源一郎」(ふくちげんいちろう)らを中心に、保守的な「立憲帝政党」(りっけんていせいとう)を結成。しかし、この立憲帝政党は民権派に対抗できるほどの勢力にはなれず、翌1883年(明治16年)に解党しています。
自由党 | 立憲改進党 | 立憲帝政党 | |
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総理(党首):板垣退助 | 党首:大隈重信 | 福地源一郎 | |
性格 | フランス流 急進的な自由主義 |
イギリス流 漸進的な立憲主義 |
保守的 政府系政党 |
主張 | 一院制・主権在民 普通選挙 |
二院制・君民同治 制限選挙 |
二院制・主権在君 制限選挙 |
基盤 | 士族や地主・自作農を主とする地方農村 | 都市の知識人層や実業家(特に三菱) | 神官、僧侶、官吏、退職官吏 |
主な党員 | 後藤象二郎、片岡健吉、大井憲太郎、河野広中、星亨など | 矢野竜渓、沼間守一、犬養毅、尾崎行雄、前島密など | 福地源一郎、丸山作楽 |
機関紙 | 「自由新聞」 | 「郵便報知新聞」 | 「東京日日新聞」 |
国会開設の勅諭により、明治政府は憲法制定・国会開設の準備に本格的に着手。1882年(明治15年)に伊藤博文らをヨーロッパへ派遣して、憲法調査に当たらせました。
伊藤博文は、ベルリン大学の「ルドルフ・フォン・グナイスト」、ウィーン大学の「ローレンツ・フォン・シュタイン」などからドイツ流の憲法理論を学び、翌1883年(明治16年)に帰国。憲法制定・国会開設の準備を進めます。
まず、1884年(明治17年)に「華族令」(かぞくれい)を定め、華族(かぞく:旧貴族層)の範囲を広げて、旧公家・大名以外からも国家に功績のあった者が華族になれるようにし、将来の「上院」(じょういん:のちの貴族院[きぞくいん])の土台をつくりました。
1885年(明治18年)には、それまでの「太政官」(だじょうかん:朝廷の最高機関)を廃して、「内閣制度」を制定。各省の長官は国務大臣として、自省の任務に関して直接責任を負う立場となっただけでなく、国政全体に関しても、総理大臣のもとに閣議の一員として参画することとなったのです。そして初代総理大臣には、伊藤博文が就任しています。
一方、地方制度の改革も、ドイツ人顧問「アルバート・モッセ」の助言を得て、「山縣有朋」(やまがたありとも)を中心に進められ、1888年(明治21年)に市制・町村制が、1890年(明治23年)には府県制・群制を公布。明治政府の強い統制のもとではありますが、地域の有力者を担い手とする、地方自治が制度的に確立しました。
国家制度の整備を終えた明治政府は、1886年(明治19年)の末頃から憲法草案(そうあん:原案)の起草作業に着手。ドイツ人顧問「カール・フレデリック・ロエスレル」、アルバート・モッセの助言を受けて、「井上毅」(いのうえこわし:のちの文部大臣)・「伊藤巳代治」(いとうみよじ:総理大臣秘書官)・「金子賢太郎」(かねこけんたろう:のちの司法大臣)らが起草にあたりました。
そして、1889年(明治22年)2月11日、東アジア初の近代的憲法として「大日本帝国憲法」(だいにっぽんていこくけんぽう:別名・明治憲法[めいじけんぽう])が発布されたのです。
大日本帝国憲法の特徴は大きく2つ。まず、天皇が定めて国民に与える「欽定憲法」(きんていけんぽう)であり、天皇と行政府に極めて強い権限が与えられたものであること。そのため憲法上、日本国民は「臣民」(しんみん)と呼ばれましたが、法律の範囲内で所有権の不可侵、信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由が認められ、議会(ぎかい:国会)での予算案・法律案の審議を通じて国政に参加する道も開かれました。
大日本帝国憲法のもうひとつの特徴が、議会制を定めたことです。帝国議会は、対等の権限を持つ貴族院と「衆議院」(しゅうぎいん)の2院で構成。1890年(明治23年)に、日本最初の衆議院議員総選挙が行われ、その結果、民党(みんとう:民権派各党の総称)と呼ばれた、立憲自由党(りっけんじゆうとう:自由党から改名)、立憲改進党などが大勝。第1回議会招集時には民党が過半数を占めたのです。
民党の躍進について、明治政府は衆議院議員総選挙前から想定しており、憲法発布直後の2代総理大臣「黒田清隆」(くろだきよたか)のときに、「政府の政策は政党の意向によって左右されてはならない」という「超然主義」(ちょうぜんしゅぎ)の立場を表明していました。
初期議会では、この超然主義を掲げる山縣有朋(3代総理大臣)内閣、いわゆる藩閥政府(はんばつせいふ:旧薩摩藩[さつまはん:現在の鹿児島鹿児島市]、長州藩[ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市]出身者による政権)と、地租(ちそ:土地を対象とした税)の軽減などを求める民党が激しく対立。その結果、明治政府は予算の成立などが円滑に進まず、一方の民党も自らの政策を実現できない状態に。そのため4回目の議会から、明治政府と民党の一部が接近し始めたのです。
その後、「日清戦争」(にっしんせんそう)の勝利と「三国干渉」(さんごくかんしょう:フランス・ドイツ・ロシア帝国による日本への領土返還の勧告)は、明治政府と民党の関係を大きく変化させました。
第2次伊藤博文内閣は、自由党(立憲自由党から再び改名)の板垣退助を内務大臣として入閣させ、続く第2次「松方正義」(まつかたまさよし)内閣では、進歩党(しんぽとう:旧立憲改進党)の大隈重信が外務大臣として入閣。
しかし、ここからまた、二転三転していきます。1898年(明治31年)に成立した第3次伊藤博文内閣は、総選挙で伸び悩んだ自由党との提携をあきらめて超然主義へ戻り、これに対して、自由党と進歩党の両党が合流して「憲政党」(けんせいとう)を結成。
衆議院に絶対多数を持つ憲政党の出現により、伊藤博文内閣は議会運営の見通しを失い退陣。代わって、日本初の政党内閣と言える第1次大隈重信内閣が成立したのです。この大隈重信内閣は、総理大臣に大隈重信、内務大臣に板垣退助を据え、陸・海軍両大臣を除くすべての閣僚を、憲政党出身者が占めていました。
しかし、この大隈重信内閣も長くは続きません。その組閣直後から、憲政党内の旧自由党と進歩党出身者の対立に悩まされ、「尾崎幸雄」(おざきゆきお)が「共和演説事件」(きょうわえんぜつじけん:尾崎幸雄の演説中において共和制[きょうわせい:君主を持たない政治体制]を賛美した事件)によって文部大臣を辞任すると、憲政党内における対立は、文部大臣後任を巡って頂点に達します。結果、憲政党は「憲政党」(けんせいとう:旧自由党系)と「憲政本党」(けんせいほんとう:旧進歩党系)に分裂し、大隈重信内閣はわずか4ヵ月で退陣。
次の第2次山縣有朋内閣は、憲政党の支持を得て「地租増徴案」(ちそぞうちょうあん:土地の税率を上げた法案)を成立させる一方で、民党の影響力が官僚に及ぶのを防ぐ動きに出て、1899年(明治32年)に「文官任用令」(ぶんかんにんようれい:文官の任用資格に関する法令)を改正。
翌1900年(明治33年)には、民党の力が軍部に及ぶのを阻む「軍部大臣現役武官制」(ぐんぶだいじんげんえきぶかんせい)を定め、現役の大将・中将(ちゅうじょう)の官位以外は、陸・海軍大臣になれないことを明記しました。そしてさらに「治安警察法」(ちあんけいさつほう)を公布して、政治・労働運動の規制を強化したのです。
憲政党は、このような山縣有朋内閣の政策を批判。新たな政党結成を目指していた伊藤博文に接近して憲政党を解党し、伊藤博文派の官僚達とともに、1900年(明治33年)に立憲政友会を結成。総裁には伊藤博文が就任しました。
伊藤博文は、この立憲政友会を率いて、同年に第4次伊藤博文内閣を組織。しかし、貴族院の反対に苦しめられて退陣。1901年(明治34年)に、第1次桂太郎内閣が成立しています。桂太郎は、山縣有朋の後継者で長州藩の人物です。
これ以後、この桂太郎率いる軍部・官僚・貴族院勢力と、伊藤博文の跡を継いだ西園寺公望を総裁とした立憲政友会が政界を二分し、桂太郎と西園寺公望が交互に内閣総理大臣を務めた、桂園時代へと進んでいきます。