かつて日本の南西諸島には、450年続いた「琉球王国」(りゅうきゅうおうこく)が存在しました。海に囲まれた地形を活かした琉球王国は、古くから貿易の拠点として繁栄。室町時代の15世紀には、日本・中国・朝鮮・東南アジア諸国との交易や外交を通して、一大海洋王国へと発展していきました。異国の風習が混ざり合うなかで、独自の文化を築き上げた琉球王国でしたが、17世紀初頭に薩摩藩から武力で制圧され、江戸幕府の支配下に置かれます。そして明治時代の廃藩置県以降、完全に日本に併合され、琉球王国は消滅したのです。
琉球王国が成立したのは1429年(正長2年)。以来、1879年(明治12年)までの450年間にわたって琉球王国が周辺諸島を支配しました。しかし、それ以前から琉球では交易が盛んで、弥生時代に琉球から伝わったとされる貝の腕輪などが九州北部で見つかっているほど。
琉球王国成立以前、12世紀頃には、各地で按司(あじ)と呼ばれる首長がグスク(城郭)を形成して勢力を競っていました。
14世紀半ばには「北山」(ほくざん)・「中山」(ちゅうざん)・「南山」(なんざん)の3つの王国が並び立つ三山時代を迎えます。この頃から琉球は大交易時代に入り、国際貿易国家として飛躍的に発展していきました。
1406年(応永13年)、現在の沖縄県南城市にあった佐敷(さしき)グスクを拠点に、勢力を拡大した「尚思紹」(しょうししょう)・「尚巴志」(しょうはし)親子が、三山統一に乗り出しました。
三山で最も力を持っていたのが、名君「察度王」(さっとおう)が治めた中山。しかし次代の「武寧」(ぶねい)は酒に溺れたため、人心が離れていきます。尚親子は、その弱点を突いて中山を攻撃。武寧を討ち、尚思紹が中山の王となりました。
尚巴志は1416年(応永23年)に北山の王「攀安知」(はんあんち)を倒し、自ら王に即位。そして、1429年(正長2年/永享元年)に南山の王「他魯毎」(たろみ)を滅ぼして三山の統一を実現します。
尚巴志が、初代国王として琉球王国を建国。「首里城」(しゅりじょう:沖縄県那覇市)を拠点とする「第一尚氏王統」が誕生したのです。
三山が統一されたとはいえ、尚氏王統の政権は盤石ではありません。地方では有力な按司達があいかわらず強い影響力を持っていたため、尚氏王統の権力が弱い状態でした。
尚巴志の第7子「尚泰久」(しょうたいきゅう)の治世である1458年(長禄2年)には、「護佐丸・阿麻和利の乱」(ごさまる・あまわりのらん)が勃発。護佐丸は、尚巴志が北山攻略の際に戦功を挙げた人物で、また阿麻和利は貿易で勢力を伸ばした有力者でした。尚泰久は乱を平定したものの、政治基盤は大きく揺らぎます。
そして次の「尚徳」(しょうとく)の時代になると、尚泰久の重鎮「金丸」(かなまる)のクーデターにより、第一尚氏王統は終焉を迎えます。
金丸は「尚円」(しょうえん)と名を変えて琉球王となり、ここから400年以上続く「第二尚氏王統」が始まりました。
尚円が死去すると、弟の「尚宣威」(しょうせんい)が即位しますが、半年で尚円の子「尚真」(しょうしん)へ王位を譲ります。
1477年(文明9年)、12歳で3代琉球国王に即位した尚真は、琉球史上最高の王と讃えられる名君で、歴代最長の50年間にわたって琉球王国を統治。国政と外交に抜群の手腕を発揮し、琉球王国の黄金時代を築きました。
最も大きな功績は、各地の按司を首里に集住させ、琉球王国で初めて中央集権制度を確立したことです。また尚真は国政だけでなく、領土拡大にも積極的でした。
1500年(明応9年)には八重山(やえやま)・久米島(くめじま)を、1522年(大永2年)には与那国島(よなくにじま)を征服。先島諸島(さきしましょとう:宮古列島・八重山列島の総称)全域を支配下に治め、琉球王国の領土は過去最大となりました。
1609年(慶長14年)、薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県西部)の島津氏が、薩摩藩の財政を立て直すため琉球へ侵攻。領土の拡大に加え、琉球王国の「朝貢貿易」(ちょうこうぼうえき)による利益に目を付けたのです。
朝貢貿易とは、明(みん:14~17世紀半ばの中国王朝)の皇帝に貢ぎ物を送り、返礼品を受け取る独自の貿易方法。琉球王国は明からの返礼品が多大だったため、莫大な報酬を得ていたのです。
3,000人余りの薩摩軍は、奄美大島・徳之島を相次いで制圧。続いて沖縄本島に上陸し、首里城へと攻め寄せます。琉球軍は4,000名の兵士を集めて迎え撃ちますが、交戦の経験に乏しかったため首里城はあっけなく陥落。琉球王国は薩摩藩の支配下に入り、幕藩体制に取り込まれていきました。
那覇港を見下ろす丘の上にそびえる首里城は、琉球王国の政治や外交、文化の中心として栄華を誇りました。
広さは東西約400m・南北約200m。漆で朱塗りされた建築物は朝鮮や中国の影響を色濃く受け、琉球王国と大陸の結び付きを象徴しています。
1945年(昭和20年)の沖縄戦で焼失し、1992年(平成4年)に復元。以来、沖縄の主要観光地として人気を集めましたが、2019年(令和元年)の火災により、正殿をはじめ多くの建築物や収蔵品が焼失。2026年(令和8年)までに正殿の復元完成を目指しています。
周辺諸国との活発な海上貿易を通して、琉球の美術・工芸品は独自の進化を遂げました。沖縄では焼き物のことを「やちむん」と呼びます。
15世紀頃から中国の白磁、南方の焼き物が伝わり、琉球王国の職人達は積極的にその技法を取り入れました。
17世紀に入ると、琉球王府は現在の那覇市壺屋(つぼや)に窯場を集約させ、やちむんの大量生産に着手。これが沖縄を代表する壺屋焼の始まりで、線彫りした模様に色を差す手法が特徴です。
窯場は現在、中頭郡読谷村(なかがみぐんよみたんそん)へ移りましたが、古い建物が並ぶノスタルジックな「壺屋やちむん通り」では、沖縄の焼き物の歴史に触れながら散策が楽しめます。
また琉球工芸文化の最高傑作と言われる琉球漆器は、強烈な太陽の日差しが生み出す鮮やかな発色が特徴。蒔絵(まきえ)・螺鈿(らでん)といった様々な装飾技法は、中国・日本との交易を通じてもたらされたと伝えられます。