安土桃山時代の重要用語

龍造寺隆信 
/ホームメイト

日本の戦国時代、数多くの武将がその名を歴史に刻みました。そのなかでも九州地方、特に肥前国(現在の佐賀県、長崎県)で活躍した「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)は、独特な戦略とリーダーシップで九州統一を果たそうとした人物です。剛腕かつ冷酷な判断を行うことから「肥前の熊」とも称され、島津氏・大友氏とともに「九州三強」の一角にも数えられています。龍造寺隆信は、激動の戦国時代において、どのようにして権力を築き上げたのか、その人生を振り返りましょう。

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龍造寺隆信 
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日本の戦国時代、数多くの武将がその名を歴史に刻みました。そのなかでも九州地方、特に肥前国(現在の佐賀県、長崎県)で活躍した「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)は、独特な戦略とリーダーシップで九州統一を果たそうとした人物です。剛腕かつ冷酷な判断を行うことから「肥前の熊」とも称され、島津氏・大友氏とともに「九州三強」の一角にも数えられています。龍造寺隆信は、激動の戦国時代において、どのようにして権力を築き上げたのか、その人生を振り返りましょう。

龍造寺隆信の生涯

7歳で出家

龍造寺家の家紋「日足」

龍造寺家の家紋「日足」

龍造寺隆信は1529年(享禄2年)、肥前国の「龍造寺周家」(りゅうぞうじちかいえ)の子として誕生。この時期、日本は戦国時代のさなかにあり、大名達は領土を拡大し、権力を固めようと争っていました。

肥前国もまた多くの勢力が割拠し、絶えず権力争いが繰り広げられた地域。この頃の龍造寺氏は、まだ肥前国内の小領主に過ぎない程度でした。龍造寺隆信は、幼少期に「宝琳院」(ほうりんいん:佐賀県佐賀市)の「豪覚和尚」(ごうかくおしょう:龍造寺隆信の大叔父にあたる)に預けられ、育てられることになります。そして1536年(天文5年)、7歳にして出家。法名を「円月」(えんげつ)として、10代になるころには知識も腕力も大人に匹敵するほどにまで成長します。

龍造寺家の当主となる

龍造寺隆信の家系である龍造寺氏は、筑前や肥前などを支配していた少弐氏に仕える身でした。しかし、1545年(天文14年)に、祖父の「龍造寺家純」(りゅうぞうじいえずみ)や父の龍造寺周家らが謀反の疑いをかけられる事件が勃発。龍造寺隆信は、どうにか曽祖父の「龍造寺家兼」(りゅうぞうじいえかね)とともに、筑後国(現在の福岡県南部)に脱出しましたが、祖父・龍造寺家純や父・龍造寺周家らは少弐氏の重臣「馬場頼周」(ばばよりちか)によって、粛清されてしまったのです。

父・龍造寺周家が死去した翌年の1546年(天文15年)、龍造寺隆信は筑後国(現在の福岡県南部)の大名「蒲池鑑盛」(かまちあきもり)の支援を受けて挙兵。馬場頼周を討つことに成功します。その後、すぐに曽祖父・龍造寺家兼が死去。龍造寺家兼の遺言により龍造寺隆信は還俗して「龍造寺胤信」(りゅうぞうじたねのぶ)を名乗り、水ヶ江龍造寺氏(みずがえりゅうぞうじし)の当主となりました。

1548年(天文17年)には、本家である村中龍造寺氏(むらなかりゅうぞうじし)当主「龍造寺胤栄」(りゅうぞうじたねみつ)が死去。龍造寺隆信(当時は胤信)は龍造寺胤栄の未亡人を娶って、龍造寺本家の家督も継承します。その後、有力大名「大内義隆」(おおうちよしたか)と同盟を締結。1550年(天文19年)には、龍造寺隆信と改称して、龍造寺氏当主として確固たる地位を築きました。

肥前国の統一から晩年までの龍造寺隆信

連戦連勝で肥前国の統一を果たす

大友宗麟

大友宗麟

1551年(天文20年)、後ろ盾である大内義隆が「大寧寺の変」(たいねいじのへん)で亡くなります。それでもなお龍造寺隆信は勢力拡大を進め、1559年(永禄2年)には少弐氏を攻撃。「少弐冬尚」(しょうにふゆひさ)を自害に追い込み、少弐氏を滅亡させました。

さらに、肥前国の国人領主が次々と味方になり、1562年(永禄5年)頃までには東肥前のほとんどを支配するようになります。1563年(永禄6年)には、有馬氏・大村氏の連合軍を撃破。肥前国の南部に龍造寺隆信の支配地が広がると、豊後国(現在の大分県)の「大友宗麟」(おおともそうりん)が龍造寺隆信を警戒しはじめます。なお、当時の龍造寺隆信は形式上、大友氏に仕える身となっていました。

そして、1570年(元亀元年)に「今山の戦い」(いまやまのたたかい)が勃発。大友宗麟が龍造寺隆信討伐のための兵を挙げ、総攻撃を仕掛けます。一方の龍造寺軍は決戦前夜、500の兵で大友宗麟の本陣を奇襲。作戦が功を奏して、前線を担当していた敵将「大友親貞」(おおともちかさだ:大友宗麟の従兄弟とされる)を討ち取ることに成功します。大友軍は2,000人以上の死傷者を出し、龍造寺隆信の勝利に終わりました。その後、1573~1578年(天正元年~6年)にかけて、西肥前、東肥前を平定し、龍造寺隆信はついに肥前国の統一を果たすのです。

大友氏へ侵攻

1578年(天正6年)に、「耳川の戦い」(みみかわのたたかい)で大友宗麟が「島津義久」(しまづよしひさ)に敗北すると、それを機に龍造寺隆信は、大友氏の領地に攻め入ります。

さらに、1580年(天正8年)には筑前国(現在の福岡県西部)や筑後国、肥後国(現在の熊本県)、豊前国(現在の福岡県東部)などを掌握。同年には家督を嫡男「龍造寺政家」(りゅうぞうじまさいえ)に継承し、隠居しました。ただし、これは形だけの家督相続であり、実権は龍造寺隆信が握っていたとされています。

1581年(天正9年)には南から、島津義久の弟である「島津忠平」(しまづただひら)が肥後南部の大名・相良氏(さがらし)を侵攻。相良氏は肥後国南関(なんかん:現在の熊本県玉名郡南関町)に陣を取る、龍造寺氏一族の「龍造寺家晴」(りゅうぞうじいえはる)に助けを求めます。龍造寺家晴はただちに兵を起こし、高瀬川の対岸にいる島津軍と対峙。決戦がいまにも始まるというところで、島津側の武将「秋月種実」(あきづきたねざね)が仲裁に入るのです。これにより、川の東南部を島津領、北西部を龍造寺領として和睦。秋月種実としては、両軍が和平を結ぶことで、共に大友氏を打倒することを目指したと考えられています。

島津軍に討たれた龍造寺隆信

有馬晴信

有馬晴信

破竹の勢いで勢力を伸ばしてきた龍造寺隆信でしたが、ついにその終わりが訪れます。1584年(天正12年)に「有馬晴信」(ありまはるのぶ)が島津氏へと離反すると、龍造寺軍はその粛清のため、「深江城」(ふかえじょう:長崎県南島原市)への攻撃を始めました。

しかし、なかなか攻略できないため、ついに龍造寺隆信自身が軍を率います。兵力は龍造寺軍2万5,000、島津軍1万弱。数の上では龍造寺側が圧倒していましたが、龍造寺の大軍は狭い道に誘い込まれ、挟み撃ちにされてしまいます。これにより龍造寺軍は大きな痛手を負い、大将・龍造寺隆信が島津家の家臣「川上忠堅」(かわかみただかた)に討ち取られてしまったのです。墓所は、「高伝寺」(こうでんじ:佐賀県佐賀市)の境内に設けられました。しかし、合戦で打ち取られた龍造寺隆信の首が、実際にどこに埋められているのかは諸説あり、佐賀県や長崎県には「隆信の塚」と呼ばれる場所が複数あります。

龍造寺隆信の死後、龍造寺氏は島津氏に引き続き苦しめられることになり、最終的には嫡男・龍造寺政家が島津氏へ投降。1607年(慶長12年)には、龍造寺政家の子「龍造寺高房」(りゅうぞうじたかふさ)が自死していまい、龍造寺政家もその後すぐにこの世を去ったため、龍造寺氏は断絶してしまいました。

龍造寺隆信の人物像

龍造寺隆信は、家督継承から肥前国統一までを一気に進め、英気にあふれる人物として伝わっています。龍造寺隆信が残した言葉としては、「分別も久しくすればねまる」が有名です。何事も度を超して熟慮しすぎると、機を逃してしまうという意味で、ここぞというときの判断力や、素早い行動が龍造寺隆信の特徴であるとされます。

また、冷酷非情な面もあり、疑心暗鬼にかられやすい性格でもありました。1583年(天正11年)には、家臣「赤星統家」(あかほしむねいえ)が龍造寺隆信の命令に背いたことを理由に、人質として預かっていた赤星統家の幼い子供達を殺害しています。ただ、そのような冷酷さを併せ持っていたからこそ、龍造寺隆信は一代にして九州三強にまで上り詰めたとも言えるのです。

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