明治維新という大きな変革のあと、明治政府は欧米諸国に対抗するべく、近代化を進めていきます。しかし急速な時代変化に伴って、これまでの特権を失った士族(しぞく:旧武士層)達は不満を高めていました。また明治政府内でも、李氏朝鮮(りしちょうせん:14~19世紀の朝鮮王朝)に対する外交を巡って対立が起こります。明治政府がまだ盤石とは言えない状況のなかで、明治政府のやり方に不満を抱く、士族達の反乱が全国において相次いで勃発。その先駆けとなったのが、1874年(明治7年)に起きた「佐賀の乱」(さがのらん)でした。
また、明治政府は外交上の大きな課題も抱えていました。それは、江戸時代に国交があった李氏朝鮮との関係です。
明治政府も李氏朝鮮との国交を希望しましたが、当時鎖国していた李氏朝鮮は、欧米諸国に倣って近代化していく日本に不信感を持っており、日本からの国書の受け取りを拒否。李氏朝鮮との外交が上手くいかないなかで、日本国内では武力で李氏朝鮮の開国を迫る「征韓論」(せいかんろん)が盛り上がりをみせました。
1873年(明治6年)、明治政府は「西郷隆盛」を特使として派遣することを決定。しかし、明治政府首脳である「大久保利通」(おおくぼとしみち)、「岩倉具視」(いわくらともみ)などが欧米諸国からの視察から戻ると、まずは国内を強化するべきだとして、延期となりました。
その結果、西郷隆盛をはじめ、「板垣退助」(いたがきたいすけ)、「江藤新平」(えとうしんぺい)、「副島種臣」(そえじまたねおみ)、「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)といった征韓派の参議(さんぎ:明治政府の重職)が辞職、他にも官僚・軍人を合わせて約600人が明治政府を去る、明治六年政変へ発展したのです。
佐賀県では、征韓論を支持する「征韓党」(せいかんとう)と日本の欧米化に反対する「憂国党」(ゆうこくとう)という2つの士族グループがありました。お互いの主張はかけ離れており、これまで激しく対立していましたが、明治六年政変をきっかけに反明治政府で考えが一致したことにより、互いに接近します。
佐賀県令(現在の佐賀県知事に相当)の「岩村通俊」(いわむらみちとし)は、士族グループが不穏な動きを見せていたことを明治政府に伝え、書簡で助けを求めました。
そこで、不平氏族をいさめるために佐賀県へ帰郷してきたのが、明治六年政変で下野(げや:政府要人から民間人になること)した江藤新平。しかし、佐賀県の士族が抱えた反明治政府の勢いには手が付けられず、一時的に佐賀県を離れて長崎県へ向かいました。
そんな情勢のなか、1874年(明治7年)2月1日、憂国党員が官金(かんきん:明治政府の資金)預かり業者である小野組を襲う事件が起こります。
事件は電報ですぐに内務省へ通知され、内務卿(内務大臣に相当)だった大久保利通は、4日に熊本鎮台(ちんだい:地方政務・軍事を担う機関)の司令長官「谷干城」(たにたてき)に佐賀士族の鎮圧を命令。そして9日に大久保利通は、軍事・行政・司法の全権を帯び、佐賀士族による反乱鎮圧の陣頭指揮に立つため、九州へ向かいました。
このとき、参議「三条実美」(さんじょうさねとみ)の依頼により、もう1人の人物が佐賀士族をなだめるため、佐賀県へ向かっていました。それが明治政府のなかで北海道の開拓に尽力し、「北海道開拓の父」と呼ばれた「島義勇」(しまよしたけ)。
島義勇は佐賀県に向かう途中で、偶然にして岩村通俊の弟で、新たに佐賀県令を命じられた「岩村高俊」(いわむらたかとし)と同船となりました。岩村高俊は、佐賀県の士族を見下した態度を取っており、その不遜な態度を見た島義勇は、明治政府軍を打ち払うことを決意。長崎県でそれまで不仲だった江藤新平と会談し、江藤新平が征韓党の首領に、また島義勇が憂国党の首領となって、共同で明治政府に対し反乱を起こすことを決めたのです。
2月15日、佐賀県令・岩村高俊が明治政府軍とともに、佐賀県庁が置かれた「佐賀城」(さがじょう:佐賀県佐賀市)へ入城。江藤新平は明治政府軍が佐賀県に入った意図を確かめるため、使者を出しました。しかし、佐賀県令・岩村高俊は「答える必要はない」として返答を拒絶。
これを聞いて江藤新平と島義勇は、ついに佐賀城を攻撃するに至ります。2月18日に、明治政府軍の将兵が3分の1も死亡する大損害を与えて佐賀城を落城し、佐賀県令・岩村高俊を久留米(くるめ:現在の福岡県久留米市)へ敗走させました。
しかしその翌2月19日、東京・大阪の鎮台から軍勢を率いて、大久保利通が博多(はかた:現在の福岡県福岡市)へやってきます。反乱軍は、幕末に「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)を戦った手練れの旧佐賀藩士。それに引き換え、明治政府軍は徴兵で集められた兵隊で実戦経験のない平民も多かったため、大久保利通はその実力を不安視していました。そこで現地でも新たに兵を集めて、圧倒的な軍事力で鎮圧に当たります。
2月22日、最新鋭の装備を備えた明治政府軍が次々と戦線に投入されると、形勢は明治政府側に傾いていきました。弾薬が底をついた反乱軍は、わずか数時間のうちに敗走。江藤新平は翌日、田出川(たでがわ:佐賀県神埼市)に陣取りますが、ここでも多数の死者を出して敗退し、もはや勝ち目はないと悟ります。そこで江藤新平は征韓党を解散し、西郷隆盛に助力を求めて鹿児島県へ向かいました。
江藤新平は反乱を起こすにあたって、鹿児島県の西郷隆盛、高知県の「林有造」(はやしゆうぞう:政治家であり岩村通俊、岩村高俊の弟)などの同志へ事前に密使を送っていました。江藤新平としては、佐賀県で反乱を起こせば各地の不平士族が呼応して反乱を起こすだろうという思惑があったのです。
ところが、鹿児島県の有力者で同じ攘夷主義(じょういしゅぎ:外国勢力を排除する思想)だった「島津久光」(しまづひさみつ)は、士族の武力蜂起に反対だったため、西郷隆盛に反乱軍を討伐するように提言。西郷隆盛は「それは明治政府軍のすべきことで自分の出る幕ではない」と答えたものの、面会した江藤新平を助けることもしなかったのです。
江藤新平は鹿児島県を出て、高知県の林有造、「片岡健吉」(かたおかけんきち:高知県の政治家)を訪ねますが、ここでも協力を断られました。また徹底抗戦していた憂国党も明治政府軍に佐賀城を奪還され、島義勇もまた島津久光を頼って鹿児島県へ向かいましたが、3月7日に捕縛。3月29日には、江藤新平も全国に手配書が回っていたことで甲浦(かんのうら:現在の高知県安芸郡)にて捕縛され、佐賀の乱は終息を迎えました。
捕縛された江藤新平は東京での裁判を望みますが、急遽佐賀県に設置された臨時裁判所で裁かれます。
しかしこの裁判は形式だけのもので、初めから死刑が決まっていた裁判。審議はわずか2日で結審し、江藤新平と島義勇はその日のうちに士族の籍から除かれ、斬首の上で梟首(きょうしゅ:晒し首)の刑となります。この他11名も斬首となりました。
大久保利通としては、明治政府に対する謀反には厳罰で臨むことで、全国の不平士族に明治政府の権威を示す意図がありました。しかし、公正な裁判が行われなかったことや処分が重すぎることで、かえって士族達の不満を高めることになってしまい、その後に頻発する不平士族の反乱につながっていったのです。