江戸時代の重要用語

西郷隆盛 
/ホームメイト

「西郷隆盛」(さいごうたかもり)は、「大久保利通」(おおくぼとしみち)、「木戸孝允」(きどたかよし)と並んで「維新の三傑」(いしんのさんけつ)と称される、幕末に日本を大きく動かした中心人物です。薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)の下級武士だった西郷隆盛は、薩摩藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)の目に留まり、側近として活躍するようになります。島津斉彬の死後、沖永良部島(おきのえらぶじま:鹿児島県大島郡)へ流刑となるも、大久保利通らの尽力により薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県)へ帰還。その後、薩摩藩はもとより国をも動かす存在となっていくのです。倒幕へと気持ちが傾く西郷隆盛は、長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)と「薩長同盟」(さっちょうどうめい)を結び、江戸幕府を追い込みます。その後も「江戸城無血開城」(えどじょうむけつかいじょう)を実現するなど、大きな業績を残しますが、日本最後の内戦「西南戦争」(せいなんせんそう)で自害。明治維新の中心人物でありながら、自ら作り上げたはずの明治政府と戦い、この世を去った西郷隆盛の波瀾万丈な足跡を振り返ります。

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「西郷隆盛」(さいごうたかもり)は、「大久保利通」(おおくぼとしみち)、「木戸孝允」(きどたかよし)と並んで「維新の三傑」(いしんのさんけつ)と称される、幕末に日本を大きく動かした中心人物です。薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)の下級武士だった西郷隆盛は、薩摩藩主「島津斉彬」(しまづなりあきら)の目に留まり、側近として活躍するようになります。島津斉彬の死後、沖永良部島(おきのえらぶじま:鹿児島県大島郡)へ流刑となるも、大久保利通らの尽力により薩摩国(さつまのくに:現在の鹿児島県)へ帰還。その後、薩摩藩はもとより国をも動かす存在となっていくのです。倒幕へと気持ちが傾く西郷隆盛は、長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県萩市)と「薩長同盟」(さっちょうどうめい)を結び、江戸幕府を追い込みます。その後も「江戸城無血開城」(えどじょうむけつかいじょう)を実現するなど、大きな業績を残しますが、日本最後の内戦「西南戦争」(せいなんせんそう)で自害。明治維新の中心人物でありながら、自ら作り上げたはずの明治政府と戦い、この世を去った西郷隆盛の波瀾万丈な足跡を振り返ります。

波乱に満ちた西郷隆盛の生涯

島津斉彬の側近として頭角を現す

西郷隆盛

西郷隆盛

西郷隆盛は、1827年(文政10年)に薩摩国に生まれ、父は下級藩士で生活ぶりは決して豊かではなかったと伝えられています。

下級武士として働いていた西郷隆盛を見出したのは、薩摩藩主の島津斉彬でした。

島津斉彬から直接教えを受けた西郷隆盛は、彼の手足となって仕えます。ところが、1858年(安政5年)に島津斉彬は、病にかかり急死。

敬愛する藩主の死に、生きる意味を見失った西郷隆盛は尊王攘夷派(そんのうじょういは:天皇を敬い外国を排除する思想を持つ集団)の僧侶「月照」(げっしょう)とともに入水(じゅすい)自殺を図りますが、一命を取り留め、奄美大島(あまみおおしま:鹿児島県奄美市)で潜伏生活を送ることに。

その後、薩摩に呼び戻されるも1862年(文久2年)、薩摩藩で実権を握っていた島津斉彬の弟「島津久光」(しまづひさみつ)の命に背いたため、今度は沖永良部島への流刑に処せられるのでした。

流刑にて島で暮らす

このように、実は西郷隆盛は2度も島で暮らしています。島津斉彬の死後、薩摩藩からの命で奄美大島へと送られ、潜伏生活を送ったのが最初の遠島生活。

奄美大島では、「愛加那」(あいかな)と言う島妻(あんご:島に滞在中のみ婚姻関係を結ぶ妻)と結婚し、2人の子どもをもうけています。1862年(文久2年)、大久保利通らの働きかけにより藩政に復帰することが許されると、島での暮らしは終わりを迎えました。

2度目は島津久光の命令に従わず怒りを買い、沖永良部島へ流刑。沖永良部島での暮らしは大変厳しく、狭い座敷牢で過酷な日々を余儀なくされました。この地で出会ったのが、「川口雪篷」(かわぐちせっぽう)という書家。彼から書・漢詩を習い、交流を深めたと言われています。

西郷隆盛が沖永良部島にいた1862年(文久2年)、「生麦事件」(薩摩藩士による英国人殺傷事件)が起こり、翌年1863年(文久3年)に「薩英戦争」(さつえいせんそう)へと発展。

人材不足の薩摩藩では西郷隆盛を推す声が高まり、大久保利通と薩摩藩家老「小松帯刀」(こまつたてわき)らの勧めもあって、西郷隆盛の流刑を赦免。およそ1年半ぶりとなる1864年(元治元年)、西郷隆盛は薩摩国の地へ戻ることとなったのです。

明治維新の立役者として

薩長同盟を結び、江戸無血開城を果たす

1864年(元治元年)、藩政に復帰後、京都で「禁門の変」(別名:蛤御門の変[はまぐりごもんのへん])が起こり、西郷隆盛は長州藩を討伐するため、薩摩藩の指揮を執ります。

第一次長州征伐」(だいいちじちょうしゅうせいばつ)で江戸幕府軍の参謀役に任命された西郷隆盛ですが、江戸幕府軍艦奉行の「勝海舟」(かつかいしゅう)と話し合ううちに平和的解決の道に同意。結果、第一次長州征伐は戦わずして終息することとなったのです。

江戸幕府が再び長州藩への征伐を目論むなか、薩摩藩と長州藩は「坂本龍馬」(さかもとりょうま)を介して接近。そして1866年(慶応2年)、坂本龍馬の取り計らいにより、西郷隆盛と長州藩士の「桂小五郎」(かつらこごろう:のちの木戸孝允[きどたかよし])は「薩長同盟」(さっちょうどうめい)を結びます。

それまで反目し合ってきた薩摩藩と長州藩が協力することで、倒幕への機運が一気に高まり、明治維新へのターニングポイントとなったのです。

1868年(慶応4年)、明治政府軍の要職に任命された西郷隆盛は江戸へ進軍し、江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよよしのぶ)の処罰と江戸幕府討伐のため、総攻撃を計画。

ところが、総攻撃の直前、勝海舟との会談で徳川慶喜の謹慎、江戸幕府軍の「江戸城」(えどじょう:東京都千代田区)明け渡しが申し入れられます。

西郷隆盛はこの条件を受け入れ、江戸城への攻撃を中止。これが「江戸無血開城」です。交渉により、江戸に住む民の命を救った歴史的快挙として今も語り継がれています。

薩摩へ戻り、西南戦争に散る

明治維新の立役者として奔走した西郷隆盛でしたが、明治政府が樹立すると薩摩国へ引きこもることが多くなっていきます。

1871年(明治4年)には参議(朝廷における最高行政機関・太政官[だいじょうかん]の官位のひとつ)として就任、「廃藩置県」(はいはんちけん:藩制度の廃止と県制度への移行)を断行するも、明治政府との方針の違いや閣議の進め方に不満を持った西郷隆盛は辞職して薩摩へ戻り、1874年(明治7年)に私学校を設立。

江戸を離れ、穏やかな日々を過ごす西郷隆盛でしたが、1877年(明治10年)に私学校の生徒が暴動を起こすと、西南戦争が勃発。

西郷隆盛は部下、私学校の生徒に請われ参戦しますが、薩摩藩は劣勢に陥ります。もはや逃げ場がないと悟った西郷隆盛は自決。西南戦争は終わりを迎えたのでした。

このように、西郷隆盛は明治維新を推し進めた中心人物でありながら、明治政府への反乱を起こしたため逆賊(ぎゃくぞく)として扱われてしまったのです。

しかし、1889年(明治22年)122代「明治天皇」(めいじてんのう)の意向により、正三位(しょうさんみ:位階のひとつで勲一等に相当する位)を贈られることとなりました。

西郷隆盛と交流した幕末の志士達

勝海舟

勝海舟

西郷隆盛は幕末の志士達と交流し、互いに影響し合いました。

大久保利通・坂本龍馬・「橋本左内」(はしもとさない)など多くの志士と意見を交わしましたが、勝海舟との出会いは、西郷隆盛にとってとりわけ大きな衝撃だったのです。

勝海舟は幕臣の身でありながら「江戸幕府が政治を行うには限界がきている。今後は諸藩が手を取り合って政治を行う世にすべきだ」と力説。西郷隆盛は勝海舟の視野の広さや先見の明に感銘し、大いに影響を受けるようになるのです。

勝海舟もまた、西郷隆盛をして「これから天下の大事を取るのは西郷隆盛ではないだろうか」という旨の言葉を残しており、立場は違うものの互いに認め合っていたことが伺い知れます。

その後、江戸無血開城へとつながる会談で再会する2人ですが、お互いを重んじていたからこそ、実現した歴史的出来事と言えるのです。

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