「西園寺公望」(さいおんじきんもち)は1849年(嘉永2年)、右大臣(うだいじん:朝廷の最高機関・太政官[だじょうかん]の長官)「徳大寺公純」(とくだいじきんいと)の次男として生まれ、わずか4歳で西園寺家を継ぎました。早くから121代「孝明天皇」(こうめいてんのう)に仕え、18歳のときに明治政府に参加。フランス留学で自由主義を学び、帰国後に「伊藤博文」(いとうひろぶみ)に見い出されて国会開設に尽力しました。その後は、伊藤博文とともに政党「立憲政友会」(りっけんせいゆうかい)を立ち上げて、明治政府の要職を歴任したのち、56歳で内閣総理大臣へ就任。諸外国との融和を図る「協調外交」を推進しています。また、西園寺公望の卓越した先見性を頼り、92歳で他界するまで多くの政府要人が重要政策について意見を求めるために、西園寺公望のもとを訪れました。
西園寺公望が生まれた徳大寺家も、養子に入った西園寺家も、どちらも「摂関家」(せっかんけ:天皇の補佐職である摂政・関白[せっしょう・かんぱく]を輩出した藤原北家一族)に次ぐ地位にある「清華家」(せいがけ:大臣を輩出する家柄)です。
しかし西園寺公望は、和歌・国文学(こくぶんがく:日本文学)にはほとんど関心を持たず、江戸庶民の間に広がっていた俳句をたしなみました。また幼少期から、「本の虫」を自認するほど漢詩の本を読みあさったと伝えられます。
当時の日本を代表する漢学者(かんがくしゃ:中国伝来の漢詩文・思想の研究者)「内藤湖南」(ないとうこなん)、「狩野君山」(かのうくんざん)ら一流の漢学者と交流し、互いに漢書を貸し借りする仲でした。
今日、西園寺公望が収集した漢書の多くは「京都大学」(きょうとだいがく:京都府京都市)と「立命館大学」(りつめいかんだいがく:京都府京都市)の所蔵となっています。
21歳でフランス・ソルボンヌ大学へ留学し、9年半の滞在中に法学・自由思想を学びます。帰国後に「自由民権運動」(じゆうみんけんうんどう:国会開設を目的とした政治運動)に傾倒。思想家「中江兆民」(なかえちょうみん)らと「東洋自由新聞」(とうようじゆうしんぶん)を発行しています。しかし、122代「明治天皇」(めいじてんのう)から自由民権運動への参加を止められ、東洋自由新聞はすぐに廃刊。
1881年(明治14年)には伊藤博文に認められ、憲法調査のための渡欧に同行。その後も海外を飛び回り、1891年(明治24年)に帰国したのちは伊藤博文の代理として議会に参加するなど、伊藤博文のもとで着実に力を付けていきました。
1894年(明治27年)、西園寺公望は44歳で第2次伊藤博文内閣の文部大臣として、初入閣を果たします。
同年10月、総理大臣の伊藤博文が事故で負傷した際、西園寺公望が総理の臨時代理となり、また「枢密院」(すうみついん:天皇の相談に答えて国の重要事項を審議する機関)の議長にも任命。これにより、伊藤博文の後継者は、西園寺公望であることが明確に示されたのです。
1900年(明治33年)には、議会内閣制(ぎかいないかくせい:議会の信任によって政権を担う政治体制)の確立を目指すため、伊藤博文とともに政党・立憲政友会を立ち上げ、1903年(明治36年)に同党の総裁になります。さらに1906年(明治39年)には、56歳で総理大臣に就任。計3年9ヵ月ほど政権を担当しています。
このとき、ライバル関係にあった「桂太郎」(かつらたろう)と交互に政権を担当したため、この時代は「桂園時代」(けいえんじだい)と呼ばれました。
総理大臣を辞退したあと、西園寺公望が政治の表舞台に登場することはありませんでした。しかし1916年(大正5年)、123代「大正天皇」(たいしょうてんのう)の勅命(ちょくめい:天皇からの命令)で「元老」(げんろう:天皇を補佐し、国家の重要事項に関与する重臣)になると、次の総理大臣の指名に影響力を持つようになります。
当時、他に「山縣有朋」(やまがたありとも)、「松方正義」(まつかたまさよし)も元老として君臨していましたが、その2人が1920年初頭に相次いで他界すると、西園寺公望は最後の元老として政治に関与。普段は静岡県興津(おきつ:現在の静岡県静岡市清水区)の別荘で暮らし、国家の危機に際して東京へ出向いて大正天皇、124代「昭和天皇」(しょうわてんのう)らに助言を行いました。
そして1940年(昭和15年)に92歳で没するまで、西園寺公望は大正から昭和時代へと続く激動の時代を見守り続けたのです。
西園寺公望の曾祖父は、「閑院宮家」(かんいんのみやけ:113代・東宮天皇[ひがしみやてんのう]の第6皇子・直仁親王[なおひとしんのう]を祖とする)の出身。そのため、西園寺公望は幼年期に3歳年下である122代・明治天皇の遊び相手を務めたこともありました。
しかし、フランス留学で自由主義を学んで優れた国際感覚・政治的見識を身に付けた西園寺公望は、当時の日本を覆い始めていた国粋主義的(こくすいしゅぎ:日本の伝統文化・独自性を強調し保守しようとする政治思想)な雰囲気になじめず、天皇が強大な権力を手にすることを良く思っていなかったのです。
伊藤博文内閣で2度にわたって文部大臣に就任したときは、従来の「教育勅語」(きょういくちょくご:道徳の根本、教育の理念を天皇の言葉として国民に伝えた明治政府の基本方針)一辺倒の国民教育を批判。人民はすべて平等の関係で、互いに尊敬する道徳が必要であると主張しています。
こうした西園寺公望の公平な姿勢は外交姿勢にも表れ、「日露戦争」直前に国内が対ロシア強硬論で一色になった中で、対ロシア慎重論を唱え続けました。決して世論におもねる(相手の機嫌を取って意見に従うこと)ことなく、自分の信念を貫いたのです。
1932年(昭和7年)5月15日、同じ立憲政友会出身の「犬養毅」(いぬかいつよし)総理大臣が、海軍青年将校らによって暗殺されるという事件が勃発(五・一五事件)。124代・昭和天皇は、西園寺公望に「ファシズムは絶対に不可なり」(ファシズム:強権的・独裁的・非民主的な政治運動、社会思想)と述べ、西園寺公望もまったく同意見を表明したため、今度は西園寺公望自身が過激派から命を狙われたこともありました。
西園寺公望は、「住友財閥」(すみともざいばつ:住友政友[すみともまさとも]を祖とする財閥)から多額の支援を得ていました。
これは、住友財閥が便宜を図ってもらおうとする癒着ではなく、当時の住友財閥の当主「住友吉左衛門友純」(すみともきちざえもんともいと)は、西園寺公望の実弟で、純粋に西園寺公望の政治活動を支えるための支援。また、西園寺公望も住友財閥に対して、便宜を図ったことは一度もありません。
さらに、西園寺公望が最後まで住み続けた、興津の別荘「坐漁荘」(ざぎょそう:現在は明治村[めいじむら:愛知県犬山市]に移築)も住友財閥の所有物ですが、建坪は約70坪。当時の有力政治家が所有していた数千坪、10,000坪という屋敷とは比較にならないほど小住宅でした。
生涯、西園寺公望は結婚しませんでした。その代わり、長期にわたって一緒に暮らした事実婚の妻が3人いました。1人目は「お菊」で、1887年(明治20年)に最初の子である「新子」(しんこ)を授かっています。2人目は「お房の方」(おふさのかた)、3人目が「お花」です。
1919年(大正8年)、69歳の西園寺公望が「第一次世界大戦」(だいいちじせかいたいせん)の戦後処理問題を話し合う「パリ講和会議」に、全権大使として派遣されます。このとき、西園寺公望は24歳のお花さんを召使(めしつかい)として同伴。当時、娘の新子はすでに31歳でしたから、69歳の西園寺公望は自分の娘より7歳も年下の女性を新しい妻として迎えようとしていたのです。明治時代の政治家の豪快さを示す逸話として、伝えられています。