平安時代初の遣唐使(けんとうし:7世紀初め~10世紀初めにかけての中国王朝・唐へ派遣された公式使節)として中国に渡った「最澄」(さいちょう)は、帰国後に「天台宗」(てんだいしゅう)を開きます。そして多くの優秀な弟子が最澄の教えを引き継ぎ、発展させていきました。入滅(にゅうめつ:位の高い層が亡くなること)から1,200年以上が経過した今日も、「比叡山延暦寺」(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)には、最澄が自ら彫ったと伝わる「薬師如来像」(やくしにょらいぞう)が本尊(ほんぞん:信仰の中心として祀られている仏像など)として祀られ、最澄が灯した灯明は1,200年消えることのない「不滅の法灯」として燃え続けています。
平安時代初期、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)に「三津首百枝」(みつのおびとももえ)という人物がいました。
三津首百枝は子供に恵まれなかったため、「日吉大社」(ひよしたいしゃ:滋賀県大津市)の奥の院に籠って願をかけたところ、男の子が誕生。
「広野」(ひろの)と名付けられます。この広野が、のちに日本の新しい仏教を担う最澄でした。
幼い頃から聡明だった広野は、両親が信仰に篤かった影響から12歳のときに、近江の「国分寺」(こくぶんじ:滋賀県大津市)に入門。
14歳で「得度」(とくど:仏教の世界に入ること)し、最澄の名を授かります。19歳のときに「東大寺」(とうだいじ:奈良県奈良市)で「具足戒」(ぐそくかい:僧侶が守るべき戒律)を授けられ、正式に僧となりました。
そのまま東大寺で修業を続ければ、出世の道が待っていたと考えられます。しかし奈良時代から平安時代初期にかけ、寺社は朝廷をしのぐ権力を持つようになっており、寺社が政治に口を出すことは珍しくありませんでした。
これに不満を抱いた最澄は、故郷へ帰り「比叡山」(ひえいざん:京都府京都市、滋賀県大津市)へ入山。その後12年もの間、すべての人々が救われることを願い、たったひとりで修行を続けました。
同じ頃、第50代「桓武天皇」(かんむてんのう)は寺社勢力を政治から切り離したいと考えていました。そこで794年(延暦13年)、多くの大寺院があった「平城京」(へいじょうきょう:奈良県奈良市)から、現在の京都府京都市へ遷都(せんと:都を移すこと)。
そして平和で安らかな都であるようにと願いを込めて「平安京」(へいあんきょう)と名付けました。その直後、桓武天皇は修行を終えた最澄と出会い、従来の僧とは違う最澄の清らかな信仰心に感銘。最澄は、中国仏教の一大宗派であった天台宗を学びたいと桓武天皇に志願し、遣唐使の一員に加わりました。
天台宗は唐で成立した宗派で、僧「鑑真」(がんじん)が日本に伝えましたが、当時はまだ国内に定着していません。このときの遣唐使の一行には、「真言宗」(しんごんしゅう)の開祖となる「空海」(くうかい)もいたと伝えられます。
804年(延暦23年)、遣唐使の一員として中国に渡った最澄は、険しい山中にある寺「天台山」(てんだいさん)で修行。翌年帰国した最澄は、比叡山に「延暦寺」を開山し、桓武天皇の庇護を受けて、全国で天台宗を布教。
天台宗は「命ある者はすべて仏になれる」という「大乗仏教」(だいじょうぶっきょう)の教えに基づくもので、多くの人々から支持を集めました。最澄は天台宗を学ぼうとする、若い修行僧に12年間の修行を義務付けましたが、仏教だけでなく世の中の様々なことを学ばせ、常に自ら考えられる人間になるよう指導。
822年(弘仁13年)、最澄は自らの死期を悟り、弟子達に「私が死んでも喪に服さなくて良い。日本を守るために毎日お経を読み続けるように」と遺言し、静かにこの世を去りました。死後、朝廷から「伝教大師」(でんぎょうだいし)という諡(おくりな:没後に与えられる尊号)を与えられています。
最澄亡きあとも、延暦寺では日本の仏教史に名を刻む多くの名僧が修行を積み、ここから様々な宗派が誕生しています。
そのため、最澄が開いた比叡山延暦寺は「日本仏教の母山」と言われているほどです。延暦寺は比叡山全体が境内とされ、その広さは約1,700ha。1994年(平成6年)には、ユネスコの世界遺産に登録されました。
しかし、人々の心の平安を祈り続けた最澄の願いとは裏腹に、比叡山延暦寺は激しい戦闘の舞台にもなりました。
派閥や宗派間の争いが起こり、やがて「僧兵」(武装した僧侶の集団)が誕生。延暦寺は、広大な荘園や多くの僧兵を抱えて武力を高め、政治にまで影響力を持つようになります。
そして寺社同士の勢力争いや強訴(ごうそ:仏の名を借りて朝廷へ要求を強く訴え出ること)を繰り返し、朝廷でさえ思うようにならないと嘆いたほど。
のちの戦国時代に、「織田信長」が比叡山延暦寺を焼き討ちにしたのは、僧兵による利権の独占・横暴への戒めという一面もあったとされます。この焼き討ちで、所領を奪われた比叡山延暦寺は「2度と僧兵を置かない」という条件で13年後に再興を許されました。
最澄は、日本の仏教に大きな影響を与えただけでなく、お茶を伝えた人物としても知られます。最澄が中国より持ち帰ったお茶の種子が、日本におけるお茶の始まりと言われているのです。
当時の中国では、お茶は不老長寿の妙薬と信じられ、修行に励む僧侶の眠気覚ましや疲労回復の薬としても重宝。最澄が持ち帰ったお茶の種子は、最澄が幼い頃から崇拝していた、比叡山の麓の日吉大社に植えられました。
この場所は日本茶発祥の地として残され、現在でも「日吉茶園」(ひよしちゃえん)が茶の栽培を手がけています。近年、日吉茶園のお茶をDNA鑑定した結果、中国の天台山の物と同種であると判明。最澄が唐から持ち帰ったという話の真実味が増しました。
遣唐使としてともに中国に渡った最澄と空海ですが、最初、2人はとても仲良しでした。帰国後、空海が持ち帰った大量の密教(みっきょう:仏教の教派のひとつで、秘密の教義を伝承で伝える宗教)経典を最澄が借りようとしたことが、記録に残っています。
空海は「密教の教えは本を読むよりも、実際に私のもとで修行した方が良い」と最澄に伝えます。しかし天台宗の開祖としての立場もあり、何年も寺を留守にする訳にはいきません。
最澄は代わりに弟子を送り、空海の申し出を丁重に断りました。しかしこれが、のちに平安仏教を代表する2人が仲違いする原因になったと言われます。