安土桃山時代の重要用語

真田信幸 
/ホームメイト

「真田信幸」(さなだのぶゆき/真田信之)は、信濃国(現在の長野県)に生まれた戦国武将です。父の「真田昌幸」(さなだまさゆき)、弟の「真田幸村」(さなだゆきむら/真田信繁[さなだのぶしげ])と共に、何度も主君を替え、ときには、父・真田昌幸や弟・真田幸村と敵味方に分かれて戦いながら生き抜き、真田家を存続させました。真田信幸の生涯をたどり、親族対決に至った経緯や、妻「小松姫」(こまつひめ)との縁、また、江戸時代前期に信濃国で藩主として善政を敷いた功績などを紹介します。

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「真田信幸」(さなだのぶゆき/真田信之)は、信濃国(現在の長野県)に生まれた戦国武将です。父の「真田昌幸」(さなだまさゆき)、弟の「真田幸村」(さなだゆきむら/真田信繁[さなだのぶしげ])と共に、何度も主君を替え、ときには、父・真田昌幸や弟・真田幸村と敵味方に分かれて戦いながら生き抜き、真田家を存続させました。真田信幸の生涯をたどり、親族対決に至った経緯や、妻「小松姫」(こまつひめ)との縁、また、江戸時代前期に信濃国で藩主として善政を敷いた功績などを紹介します。

したたかな父・真田昌幸の子に生まれる

父・真田昌幸の生き残り戦略は、強い主君に乗り換えることだった

真田信幸

真田信幸

真田信幸は、「武田信玄」に仕え、東信濃(長野県の東部)を領有していた真田昌幸の子として、1566年(永禄9年)に生まれました。

真田信幸の父・真田昌幸は、武田家の家臣として頭角を現わしていましたが、武田信玄が1573年(元亀4年)に病没すると、武田家は衰退していきます。ついに1582年(天正10年)4月、武田信玄の子「武田勝頼」(たけだかつより)が「織田信長」と「徳川家康」の連合軍に攻められた末に自害し、武田家は滅亡しました。

それからの真田昌幸は、武田家滅亡で主君を失った者らを組織して兵力を増強し、従属先を織田氏、北条氏、上杉氏、徳川家康、「豊臣秀吉」と何度も替えて、生き残りを図ります。

この時期の真田信幸は、知略と決断力で戦国乱世を渡り歩く父・真田昌幸に付き従って成長したのです。

第一次上田合戦での活躍が、正室・小松姫との馴れ初めに

真田家は士官先を転々とするだけで生き残ったのではなく、実戦にも長けており、真田信幸は勝利によく貢献しています。

その一例は、真田家が徳川家康に仕えていた1585年(天正13年)に起きた「第一次上田合戦」です。この戦いは、徳川家康が北条氏と和睦する条件として、真田家の領地の一部を差し出すように命じ、真田昌幸が拒んだために起きました。

これに怒った徳川家康が真田討伐に7,000の兵を出すと、真田信幸はわずかな兵で徳川軍を父・真田昌幸が籠城する上田城(現在の長野県上田市にあった城)におびき寄せます。

そこへ真田軍の伏兵が火縄銃や矢で急襲し、驚いて逃げ惑う徳川軍に真田信之の隊が襲いかかって大打撃を与え、撃退したのです。

この勝利で真田家の名声は高まり、敗れた徳川家康にとっては敵に回したくない存在になりました。のちに徳川家康は、重臣「本田忠勝」(ほんだただかつ)の娘・小松姫を真田信幸に嫁がせて、真田家と良好な関係を築こうとしています。

関ヶ原の戦いで父・弟と対決

犬伏の別れで親兄弟と決別し、関ヶ原の戦いへ

真田昌幸

真田昌幸

第一次上田合戦ののち、真田家は徳川家康から離れ、すでに天下人になっていた豊臣秀吉に臣従しました。この時期の真田信幸は、豊臣秀吉が1590年(天正18年)に北条氏を攻め滅ぼした「小田原の役」で戦功を上げ、その恩賞として、かねて北条氏と領有権を争っていた沼田領(現在の群馬県沼田市)を取り戻し、沼田城の城主になっています。

しかし、これで真田家は安泰とはなりませんでした。1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去すると、豊臣家の遺臣らが対立し、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」に発展します。この戦いが真田家を二分したのです。

関ヶ原の戦いを前に、真田信幸と父・真田昌幸、弟・真田幸村は、徳川家康の東軍につくか、「石田三成」(いしだみつなり)の西軍につくかを犬伏(いぬぶし:現在の栃木県佐野市)の地で話し合いました。

これまで力を合わせてきた真田家でしたが、真田信幸の正室は徳川家ゆかりの小松姫で、弟・真田幸村の正室は石田三成の親友「大谷吉継」(おおたによしつぐ)の娘という事情もあり、簡単には決められません。

そこで、真田信幸が徳川家康に、父・真田昌幸と弟・真田幸村は石田三成につくことにして、真田家は関ヶ原の戦いで敵対することになったのです。このできごとは、真田家が生き残りを賭けて決別した「犬伏の別れ」として語り継がれています。

関ヶ原の戦いの前哨戦・第二次上田合戦で、徳川秀忠を足止め

関ヶ原の戦いで、真田信幸は徳川家康の息子「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の軍に組み込まれ、関ヶ原へ向かう途上で国元の上田城を攻めることになりました。

そこには父・真田昌幸と弟・真田幸村がおり、真田信幸にとって辛い戦いである「第二次上田合戦」が始まります。

このとき真田昌幸は、一度は無血開城するそぶりを見せておきながら籠城戦に転じたため、徳川秀忠は怒って攻めかかりましたが、真田昌幸の策略に翻弄された結果、上田城を攻め落とせず、しかも関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。

一方、この戦いで上田城の支城・戸石城(といしじょう:長野県上田市にあった城。砥石城とも表記する)を守っていた真田幸村は、兄・真田信幸の説得に応じて開城しており、兄弟対決は血を流さずに済みます。

そして、関ヶ原の戦い後、真田信幸は徳川家康に父と弟の助命を嘆願して受け入れられ、ふたりは九度山(くどやま:和歌山県九度山町)へ流罪となりました。また、徳川家康は、流罪にした真田昌幸の遺領を真田信幸に与えて、上田藩(現在の長野県上田市)の藩主にしており、敵味方に分かれても生き残ろうとした真田家の策は功を奏したのです。

江戸幕府体制下で藩政に励む

真田幸村

真田幸村

関ヶ原の戦い後、真田信幸は上田藩主として、戦乱や浅間山の噴火で荒廃した領地の復興に尽力しました。

年貢を減免し、用水を整備して耕作地を豊かにし、城下町を拡張しています。そのかたわら、九度山に流された父と弟を援助し続けました。

この間、徳川家康と豊臣家の関係が悪化して、1614年(慶長19年)の「大坂冬の陣」と1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」が起きると、弟の真田幸村は九度山を脱出して豊臣家に駆け付けて活躍しましたが、真田信幸は病気を理由に2度とも参戦していません。

もともと真田信幸は病気がちでしたが、再び弟と敵対するのを避けたのではないかとも考えられています。

91歳まで現役だった戦国武将のレジェンド

それからの真田信幸は、1622年(元和8年)に上田藩から松代藩(現在の長野県長野市松代町)に転封(てんぽう:領地を移すこと)を命じられ、91歳まで松代藩主を務めました。

これは真田信幸が高齢になっても藩主に居座ったのではなく、何度も江戸幕府に隠居を願い出ていたのに引き留められたからです。徳川将軍家には、戦国時代を知る最後の世代として真田信幸を尊敬する者が多かったためで、特に徳川家康の十男「徳川頼宣」(とくがわよりのぶ)は、真田信幸の話を聞きたがったと言われています。

91歳になった真田信幸は、ようやく次男「真田信政」(さなだのぶまさ)に家督を譲り、93歳で亡くなりました。これ以降、真田家は幕末まで松代藩主として存続しており、真田信幸は父と弟に代わり、真田家を守るという使命を果たしたのです。

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