大正時代の重要用語

サラエボ事件 
/ホームメイト

「サラエボ事件」とは、「第1次世界大戦」のきっかけとなった事件のことです。1914年(大正3年)6月、オーストリア=ハンガリー帝国が合併していた、ボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボで、親露的なセルビア青年がオーストリア帝国の皇太子夫妻を暗殺。これにより、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告しました。その後、セルビアを支援する連合国と、オーストリア=ハンガリー帝国を支援する同盟国が参戦し、世界は第1次世界大戦へと進んだのです。

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サラエボ事件 
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「サラエボ事件」とは、「第1次世界大戦」のきっかけとなった事件のことです。1914年(大正3年)6月、オーストリア=ハンガリー帝国が合併していた、ボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボで、親露的なセルビア青年がオーストリア帝国の皇太子夫妻を暗殺。これにより、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告しました。その後、セルビアを支援する連合国と、オーストリア=ハンガリー帝国を支援する同盟国が参戦し、世界は第1次世界大戦へと進んだのです。

サラエボ事件の背景

三国同盟と三国協商

20世紀初頭のヨーロッパでは、ドイツが東方アジア地域へ向けて積極的な対外政策を進めるなか、列強諸国間の帝国主義的(自国の利益拡大のため他国を侵略する政治思想)な利害関係が緊張感を増し、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリアの「三国同盟」と、イギリス、フランス、ロシア帝国の「三国協商」との対立があらわになっていました。

まず、ロシア帝国との同盟を解消したドイツは、1882年(明治15年)、ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア間の軍事同盟として三国同盟を結びます。

これに対し、イギリスはドイツ対策として、1904年(明治37年)にフランスとの間で「英仏協商」を結びました。ロシア帝国もまたフランスに接近し、1891年(明治24年)に「露仏同盟」を結び、さらに「日露戦争」の敗北により、東アジア地域からバルカン半島への進出策へと転じて、1907年(明治40年)にイギリスとの間で「英露協商」を締結。三国協商は、これら相互に同盟、協商によって結ばれた3ヵ国間の友好関係の総称であり、特定の条約が存在した訳ではありません。

「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれたバルカン半島

当時、これらヨーロッパ列強諸国が領土拡大のチャンスとして進出を企てていたのが、ヨーロッパ南東部のバルカン半島です。バルカン半島は、19世紀ごろにオスマン・トルコ帝国(現在のトルコ共和国)の国力が衰えると、スラブ系(ロシア人、ポーランド人など東ヨーロッパ民族)、ゲルマン系(ドイツ人、オーストラリア人など中央ヨーロッパ民族)など、様々な民族、宗教が入り混じって紛争が絶えず、そこへ列強諸国の利害が加わると、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれる一触即発状態となっていました。そのバルカン半島にあるボスニア=ヘルツェゴビナで、サラエボ事件は起こったのです。

サラエボ事件の概要

当時のボスニア=ヘルツェゴビナの状況

サラエボ事件が起こったボスニア=ヘルツェゴビナは、もともとはオスマン・トルコ帝国の領土でした。スラブ系でギリシア正教徒のセルビア人、セルビア人のうちイスラム教に改宗したボシュニャック人、またその他にクロアチア人など多数民族が、オスマン・トルコ帝国の緩やかな統治によって長年暮らしてきた地域です。

しかし、17世紀末から19世紀末にかけて、ロシア帝国とオスマン・トルコ帝国の間で繰り返し起こった「露土戦争」の戦後処理によって、ボスニア=ヘルツェゴビナは、1878年(明治11年)に、オーストリア=ハンガリー帝国の保護領となります。

そして、1908年(明治41年)にはセルビア、ロシア帝国に反対されながらも、オーストリア=ハンガリー帝国によって強引に併合。その結果、オーストリア=ハンガリー帝国に取り込まれたボスニア=ヘルツェゴビナに住むセルビア人は、隣国セルビアの民族主義者(民族の独立を推進する思想)達と結び付き、独立を目指してテロ活動を開始したのです。

オーストリア皇太子夫妻の暗殺

サラエボ事件

サラエボ事件

オーストリア=ハンガリー帝国にとって、このテロ活動の鎮圧は、政治的な課題となっていました。その状況下で、1914年(大正3年)6月28日、ボスニア=ヘルツェゴビナの首都サラエボで、オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子と皇太子妃がセルビア民族主義者によって暗殺されるサラエボ事件が起こったのです。

オーストリア=ハンガリー帝国は、この事件を受けて、単なる報復処置だけではなく、懸案だった政治問題の解決に利用しようと画策。その解決方法とは、隣国セルビアを併合してしまうことでした。このサラエボ事件は、当時の日本においても、各新聞の1面に大きく取り上げられます。

ただそれは、皇族の暗殺というセンセーショナルな事件だったため。結果的にこのサラエボ事件が「第1次世界大戦」の引き金になる訳ですが、世界では当時、他にも大事件が数多く発生しており、サラエボ事件はオーストリア=ハンガリー帝国など関係国を除き、すぐに忘れ去られていきました。

動いたドイツとロシア

このサラエボ事件を受けて、オーストリア=ハンガリー皇帝「フランツ・ヨーゼフ1世」は、ドイツの「フリードリヒ・ヴィルヘルム2世」に援助を求める書簡をしたためました。オーストリア=ハンガリー帝国では、セルビアの併合を強行すれば、セルビアを援助するロシア帝国が干渉してくるに違いないと予測しており、その結果自国がロシア帝国と戦争となった場合に、ドイツ側が味方をしてくれる確約を求めたのです。

これに対し、ドイツは、のちに「白紙の小切手」と呼ばれたオーストリア=ハンガリー帝国の要望に同意する書簡を深く考えず簡単に与えてしまったとされています。ドイツのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世は、セルビアの併合をオーストリア=ハンガリー帝国が行っても、ボスニア=ヘルツェゴビナ併合時と同様、ロシア帝国側は簡単に折れると判断。それは、当時のロシア帝国が、日露戦争で疲弊していたという事実もあったからです。

また、ドイツ参謀本部(作戦の立案、行使する機関)は、フランスからロシア帝国への軍用鉄道建設資金の借款(しゃっかん:国家間における金銭の借り入れ)に注目。このフランスの資金援助により、1916年(大正5年)には、ロシア帝国内の鉄道網が完成すると判明したため、フランス、ロシアなど三国協商国と戦争になるのであれば、できるだけ早いほうが良いと考えていたとされています。

一般には、オーストリア皇太子夫妻の暗殺後すぐにオーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告したというように捉えられていますが、実際のところ、オーストリア=ハンガリー帝国内では開戦準備に手間取っていました。皇太子夫妻暗殺から約1ヵ月後の1914年(大正3年)7月23日に、ようやくセルビア側に併合を求める最後通牒(つうちょう)を突き付けています。もちろん、セルビアにとっては端から受け入れできないものであり、スラブ系の盟主を自認していたロシア皇帝は「セルビアの後ろ盾であるロシア帝国が舐められた」と、これに激怒。このことは、サラエボ事件がすでに風化していた日本の新聞でも「露帝激怒」として紹介され、欧州で緊張が高まったことを伝えています。

第1次世界大戦が勃発

そして、同年7月23日、セルビアから正式回答があり、オーストリア=ハンガリー帝国の要求をのむような体裁を極力取りつつ、大半の要求を拒否。一方、セルビアの併合をもくろむオーストリア=ハンガリー帝国も、最初からセルビアの回答を受け取る気はなく、同年7月28日にオーストリアがセルビアに対して宣戦布告をしたのです。

その後、世界各国が、「第1次世界大戦」へと進んだのは、同年7月30日だとされています。この日、ロシア皇帝は全軍に動員令を発令。また、イギリスはいざ戦争になっても中立を守って欲しいというドイツの要望を拒絶しました。さらに、ニューヨーク株式市場は、ロシア帝国の総動員令発令を実質的な開戦と捉えて大暴落。こうして世界各国は、初の世界戦争へと進んでいきました。

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