江戸時代の重要用語

船中八策 
/ホームメイト

「船中八策」(せんちゅうはっさく)とは、土佐藩(とさはん:現在の高知県)出身の「坂本龍馬」(さかもとりょうま)が、1867年(慶応3年)に起草した、新国家体制に関する意見書。朝廷を中心とする大名の会議が、日本を動かすという統一国家構想であり、前土佐藩主「山内容堂」(やまうちようどう)を通じて、江戸幕府第15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)に伝えられました。この提言は、江戸幕府の終焉を大幅に加速させただけでなく、明治政府の基本方針にも大きな影響を与えたと言われます。近年の研究で、船中八策は存在しなかった可能性も高まってきましたが、坂本龍馬がこうしたアイデアを持っていたことは間違いありません。

江戸時代の重要用語

船中八策 
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「船中八策」(せんちゅうはっさく)とは、土佐藩(とさはん:現在の高知県)出身の「坂本龍馬」(さかもとりょうま)が、1867年(慶応3年)に起草した、新国家体制に関する意見書。朝廷を中心とする大名の会議が、日本を動かすという統一国家構想であり、前土佐藩主「山内容堂」(やまうちようどう)を通じて、江戸幕府第15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)に伝えられました。この提言は、江戸幕府の終焉を大幅に加速させただけでなく、明治政府の基本方針にも大きな影響を与えたと言われます。近年の研究で、船中八策は存在しなかった可能性も高まってきましたが、坂本龍馬がこうしたアイデアを持っていたことは間違いありません。

船中八策とは

幕府と薩長連合

江戸時代の末期、開国するかどうかで日本の国論は真っ二つに分かれました。江戸幕府は方針を二転三転した結果、1858年(安政5年)にアメリカと「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を結んで開国。

しかし、江戸幕府に政治を任せておけないと考えた諸藩が、江戸幕府を倒すために立ち上がります。その先鋒に立ったのが長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県)でした。江戸幕府は2度目の長州征伐に乗り出しますが、薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県)が長州を支援したために敗退。

直後に江戸幕府第15代将軍となった徳川慶喜が、江戸幕府の建て直しを図りますが、薩摩藩・長州藩ら倒幕派の勢いは止まりません。 このとき、江戸幕府と諸藩の間に入って調停を試みたのが、土佐藩の前藩主・山内容堂でした。

坂本龍馬のアイデア

坂本龍馬

坂本龍馬

山内容堂に、江戸幕府と倒幕派の両陣営を説得するように提案した人物が、坂本龍馬

坂本龍馬は土佐藩の郷士(ごうし:下級武士)であったため、藩主の山内容堂に直接会うことはできません。

そこで1867年(慶応3年)6月10日、土佐藩の船「夕顔丸」(ゆうがおまる)で、たまたま一緒に乗船した土佐藩の「参政」(さんせい:大名家の家老、実質上の藩主代理)である「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)に対して、この難局を乗り切るアイデアを進言。

後藤象二郎が、坂本竜馬のアイデアを山内容堂に伝え、山内容堂もその方針で江戸幕府と諸藩を説得しようと決めたのです。このとき、坂本龍馬が口頭で伝えた案が8ヵ条であったことから、のちに「船中八策」と呼ばれるようになりました。

船中八策の内容

船中八策の内容は以下の通りです。

  • 一、天下の政権を朝廷に奉還(ほうかん:天皇に返上すること)せしめ、政令宜(よろ)しく朝廷より出づべきこと。
  • 一、上下議政局を設け、議員を置きて万機(ばんき:重要な政務)を参賛(さんさん:携わり助ける)せしめ、万機宜しく公議に決すべきこと。
  • 一、有材の公卿・諸侯及(および)天下の人材を顧問に備へ、官爵(かんしゃく:官職と位階)を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべきこと。
  • 一、外国の交際広く公議を採り、新(あらた)に至当の規約を立つべきこと。
  • 一、古来の律令を折衷(せっちゅう)し、新に無窮(むきゅう:永遠)の大典(現在の憲法)を撰定すべきこと。
  • 一、海軍宜しく拡張すべきこと。
  • 一、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべきこと。
  • 一、金銀物貨宜しく外国と平均の法を設くべきこと。

船中八策の先進性

船中八策の趣旨とは、政治の実権を江戸幕府から朝廷へ返上し、天皇のもとに新たに登用された人材によって会議を開き、国家の体制を整えようということ。すべてが坂本龍馬の独自発想ではなく、江戸幕府の軍事総裁かつ坂本龍馬の師でもある「勝海舟」(かつかいしゅう)のアイデアが色濃く反映されていました。

例えば、6番目の「海軍宜しく拡張すべきこと」などは、31歳で「海岸防禦御用掛」(かいがんぼうぎょごようがかり)に取り立てられ、1855年(安政2年)に「長崎海軍伝習所」(ながさきかいぐんでんしゅうじょ:海軍士官養成のために幕府が設立した教育機関)に入門した勝海舟の影響をよく示しています。

また、2番目の「上下議政局を設け、議員を置きて万機を参賛せしめ、万機宜しく公議に決すべきこと」は、船中八策の先進性をよく表していました。これは1868年(明治元年)に、明治政府が発表した新政府の基本方針である「五箇条の御誓文」の冒頭、「一 広く会議を興し、万機公論に決すべし。」のルーツになったと言われているのです。

時代が動き始める

薩長の思惑

大久保利通

大久保利通

そして1867年(慶応3年)10月3日、山内容堂は船中八策を軸とする建白書を作成し、徳川慶喜へ提出。しかし、会議に列席した薩摩藩の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)、「大久保利通」(おおくぼとしみち)はあえてこれを無視。

なぜなら、その頃にはもう薩摩藩が長州藩と土佐藩と組み、武力によって江戸幕府を倒すことが確定していたからです。

もし船中八策が示している平和路線が実現すれば、衰えたとは言え大名家の中で最も資金力を持つ徳川家が、これまでと同様に新政府内で重要な地位を占めることは目に見えています。それでは、江戸幕府に代わって政治を動かしたい薩摩藩・長州藩にとって受け入れられないことだったのです。

偶然のタイミング

船中八策による建白書に、焦りを感じた大久保利通は、3日後の10月6日に朝廷の実力者「岩倉具視」(いわくらともみ)を訪ね、倒幕の相談をしています。

そして10月8日、大久保利通と西郷隆盛らは、朝廷に対して江戸幕府を討つ密勅(みっちょく:天皇から発せられる極秘の命)を出すよう嘆願。

その密勅が、薩摩藩に下りたのは10月13日、長州藩に下りたのは10月14日。そして偶然同じ10月14日には、船中八策を受け入れた徳川慶喜が「大政奉還」(たいせいほうかん:政権を江戸幕府から朝廷にお返しすること)の建白書を朝廷へ提出したのでした。

もし大政奉還が一日でも遅れていたら、徳川慶喜は朝敵(ちょうてき:天皇への反逆者)となり、薩長軍に討たれていた可能性もあります。大政奉還は、まさにギリギリのタイミングで行われたのです。この知らせを聞いた坂本龍馬は、「自分は今から徳川慶喜公のために命を捨てる覚悟だ」と涙を流して喜んだと伝えられます。

船中八策は実在したのか

脚色の可能性が高い

このように、江戸幕府側と倒幕派側を同時に動かしたとされる船中八策ですが、近年、これはのちに脚色された作り話だと言われるようになりました。と言うのも、記録では坂本龍馬が後藤象二郎に伝えた内容を、一緒にいた「海援隊」(かいえんたい:坂本龍馬が作った貿易・軍事組織)の「長岡謙吉」(ながおかけんきち)が書き留めたとされますが、その原本が見つかっていないのです。

また後藤象二郎、長岡謙吉が残した日記などにも、船中八策に関する記載がありません。このことから、「坂本龍馬が、後藤象二郎に大政奉還のアイデアを進言した」というだけの事実が、船中八策の逸話に脚色されたという説が主流になりつつあります。

坂本龍馬の先進的な国家構想

ただし、坂本龍馬が船中八策に書かれていた先進的な国家構想を持っていたことは間違いありません。船中八策と内容が酷似する「新政府綱領八策」(しんせいふこうりょうはっさく)と呼ばれる構想を、大政奉還が実現した直後の1867年(慶応3年)11月に、坂本龍馬が自筆した書が今日も残されているからです。

しかし、自身が夢に描いた政府の実現を見ることなく、同月15日に坂本龍馬は、京都河原町の醤油商「近江屋」(おうみや:京都府京都市)で暗殺されてしまいました。

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