8代執権「北条時宗」(ほうじょうときむね)が死去した翌年の1285年(弘安8年)11月、これまで鎌倉幕府を支えてきた「安達泰盛」(あだちやすもり)が、有力「御家人」(ごけにん:鎌倉将軍と主従関係を結んだ武士)の「平頼綱」(たいらのよりつな)に討ち取られる事件が起きます。この事件は11月に起きたことから「霜月騒動」(しもつきそうどう)と呼ばれます。しかし霜月騒動は、単に御家人同士の権力争いではなく、日本国内を二分する大きな戦乱へ発展し、そのあとの鎌倉幕府の在り方が大きく変貌。そんな霜月騒動が起きた背景と、その影響について解説します。
8代執権「北条時宗」(ほうじょうときむね)が没すると、嫡男「北条貞時」(ほうじょうさだとき)が14歳で9代執権となりました。
このとき、若い執権を支えたのが、内管領の平頼綱。平頼綱の娘は北条貞時の乳母(めのと:育ての親)であり、平頼綱は執権を自由に操れる立場にありました。
一方、鎌倉幕府の重職として最も力を持っていたのが、鎌倉時代初期から鎌倉幕府を支えてきた名門・御家人の安達泰盛でした。
安達泰盛は「元寇」(げんこう:13~14世紀のモンゴル帝国による日本への侵攻)の戦後処理を担当。褒美の少なさに不満を持つ、御家人達のために政策を実施します。
この政策は「弘安の徳政」(こうあんのとくせい)と呼ばれ、これに恩義を感じた全国の御家人達は、安達泰盛を大いに支持。このとき、鎌倉幕府内部では、執権を牛耳る平頼綱派、御家人の支持を集める安達泰盛派の2つの勢力が拮抗していたのです。この二派の対立は、北条時宗の死によって一気に顕在化していきました。
二派は、ひそかに戦いの準備を進めます。一触即発の雰囲気のなか、先に行動を起こしたのは平頼綱でした。1285年(弘安8年)11月17日、平頼綱は幼い執権・北条貞時に「安達泰盛の子が、自分は源氏の末裔(まつえい)などと言っています。これは自分が鎌倉将軍になるための陰謀に違いありません」と耳打ち。
そして同日の夕方、安達一族の屋敷を襲撃し、安達泰盛とその子「安達宗景」(あだちむねかげ)を殺害しました。さらに、上野国(こうずけのくに:現在の群馬県)、武蔵国(むさしのくに:現在の東京都、埼玉県)へ攻め込み、安達泰盛派の御家人約500名を討伐。
このとき「三浦頼連」(みうらよりつら)、「吉良満氏」(きらみつうじ)などは、安達泰盛を支持していないのに討たれてしまいました。この無差別攻撃のせいで、一時は執権・北条貞時までが鎌倉から逃げ出したほどでした。この争乱は11月に起きたことから霜月騒動と呼ばれます。
この争乱は全国に広がり、最も戦闘が激しかったのは九州。安達泰盛の子「安達盛宗」(あだちもりむね)は、博多で討ち死に。
また、安達泰盛と仲が良かった「少弐景資」(しょうにかげすけ)は、「岩門城」(いわとじょう:福岡県那珂川市)において、平頼綱派の兄「少弐経資」(しょうにつねすけ)に討たれています。このように、戦いは単に鎌倉幕府内の権力争いではなくなり、全国を二分する戦乱となっていったのです。
霜月騒動により、鎌倉幕府を初期から支えてきた有力御家人は北条氏だけになりました。邪魔者を消し去った平頼綱は、自分に近い御内で鎌倉幕府の重職を独占。
この体制は「得宗専制」(とくそうせんせい)と呼ばれます。また平頼綱は、恐怖政治(きょうふせいじ:権力者が、反対する者を抹殺してしまう支配体制)を敷き、鎌倉幕府の私物化を画策。
しかし霜月騒動から8年後の1293年(正応6年)、その横暴に耐えきれなくなった執権・北条貞時によって平頼綱は討たれてしまいました。