「新古今和歌集」は、13世紀はじめに成立した勅撰和歌集です。これは7世紀から8世紀に編纂された「万葉集」、10世紀はじめに編纂された「古今和歌集」と並び、和歌の歴史における最高峰とされています。しかし感動を素直に読み込んだおおらかな万葉集とは異なり、新古今和歌集では平安末期の動乱期を生きた貴族の失望感や虚無感を反映し、「新古今調」と呼ばれる独自の日本的な美の世界を作り出したとされます。
天皇や上皇(じょうこう:天皇位を譲ったのちの尊称)の勅宣(ちょくせん:天皇・上皇の命令)によって編纂された和歌集を勅撰和歌集と言います。
最初に作られた勅撰和歌集は、「醍醐天皇」(だいごてんのう)の命で905年(延喜5年)に成立した「古今和歌集」でした。
以降、1439年(永享11年)に「後花園天皇」(ごはなぞのてんのう)の命で作られた「新続古今和歌集」(しんしょくこきんわかしゅう)まで21の勅撰和歌集があり、「二十一代集」(にじゅういちだいしゅう)と総称されます(万葉集は勅撰和歌集ではありません)。
こういった勅撰和歌集は、皇室が天皇・上皇の治世(ちせい:世の中を治めること)の記念碑として作成するものでしたから、それぞれの時代の歌風が強く反映されていました。
そして二十一代集の最初の8作を「八代集」(はちだいしゅう)と呼び、その最後を飾ったのが新古今和歌集でした。
11世紀末に「白河天皇」(しらかわてんのう)が上皇となり、朝廷の意向にしばられない独自の政治を行うようになると、相対的に朝廷の貴族達の権威は失われていきました。
焦りを感じた貴族の中から、当時の貴族の最も文化的な活動であった和歌の道を究めることで存在感を増し、自家の権威づけを行おうとする一族が登場。
平安末期になると、和歌の世界に「六条家」(ろくじょうけ)と「御子左家」(みこひだりけ)というふたつの流派が生まれ、切磋琢磨しながら和歌作りに励みました。
そして12世紀初頭に御子左家から「藤原俊成」(ふじわらのとしなり)が登場すると、叙情的な歌風で一世を風靡。7番目の勅撰和歌集である「千載和歌集」(せんざいわかしゅう)の編纂を任されました。
平安時代末に即位した「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)は、1201年(建仁元年)に藤原俊成の子である「藤原定家」(ふじわらのさだいえ)ら6名に新たな和歌集の編纂を命じます。
そして2年かけて膨大な数の歌が選ばれ、それを後鳥羽上皇自身が選抜。1204年(元久元年)には藤原定家らが分類などの編集作業を行い、1205年(元久2年)に20巻からなる新古今和歌集が完成しました。
後鳥羽上皇は完成がよほど嬉しかったようで、盛大な記念の祝宴を開催し、さらに祝宴の2日後には切継(きりつぎ:歌を削除したり、新たな歌を書き入れたりする改修作業)を始めています。
1221年(承久3年)の「承久の乱」(じょうきゅうのらん)に敗れ、隠岐(おき:島根県隠岐島)に流されたあとでさえも後鳥羽上皇は切継の手を止めず、晩年には400首ほどの和歌を選んで「これこそが正しい新古今和歌集である」という手紙をそえて藤原定家に送りました。これはいわゆる「隠岐本」(おきぼん)と呼ばれます。
新古今和歌集に収録された和歌の特徴を「新古今調」と言います。ここでは、新古今和歌集の有名な歌を例に、新古今調について解説します。
短歌は5・7・5・7・7の文字数で構成されますが、その中で意味がいったん切れる場所を「句切」(くぎれ)と言います。
万葉調の歌は「57」、「57」、「7」の句で構成されることが多く、これを「二句・四句切」(にく・よんくぎれ)あるいは「五七調」(ごしちちょう)と言います。その典型が、下の句です。
「春過ぎて、夏来にけらし。白たへの、衣ほすてふ。天の香具山。」(持統天皇)
句点・読点は意味を分かりやすくするために入れてあります。
一方、新古今調は「5」、「7577」(初句切:しょくぎれ)、あるいは「575」、「77」(三句切:さんくぎれ)の構成が多く、こうして歌の流れを止め、他の句と互いに響きあって複雑な余韻を残すことを目的としました。
「秋よまた
こころの外のおもひかな
萩のうは風みねになく鹿」(藤原定家)
この歌は一首を三段に区切り、一見するとつながっていない言葉をひとつの歌としたときに生まれる余情を楽しんだものとされます。
これは、おおらかでストレートな万葉調と比較するときわめて技巧的で、これがやがて連歌(れんが:長句[575]と短句[77]を複数人の応答形式で読み続ける歌)などへと発展していきました。
新古今調の特徴は、藤原定家以外の作者の歌にもあらわれています。
「暮れて行く春の湊(みなと)は知らねども霞に落つる宇治の芝舟」(寂蓮)
「志賀の浦や遠ざかり行く浪間より氷りて出づるありあけの月」(藤原家隆)
「寂蓮」(じゃくれん)は藤原俊成の甥ですが、のちに藤原俊成の養子となり、御子左家の中心人物として活躍しました。
また「藤原家隆」(ふじわらのいえたか)は藤原俊成の門弟で、新古今和歌集の撰者のひとりです。「霞に落つる」「氷りて出づる」という表現に、新古今調の言葉選びのエッセンスがあらわれています。
「ほのぼのと春こそ空にきにけらしあまのかぐ山霞たなびく」(後鳥羽上皇)
後鳥羽上皇の歌は、万葉集の「ひさかたの天の香具山この夕べ霞たなびく春立つらしも」(柿本人麻呂)を下敷きにしたもので、このように有名な句の一部を入れて歌を作ることを「本歌取り」(ほんかどり)と言います。
こうして誰もが知っている句を想起させることで複雑な心情を表現できるため、新古今和歌集では本歌取りの技法がよく使われました。