「寝殿造」(しんでんづくり)は日本の代表的な建築様式のひとつで、主に平安時代における貴族の邸宅として使われていました。平安時代以前の建物よりも格式が高く、「寝殿」と呼ばれる建物を中心にして、廊下と「対屋」(たいのや)が伸びる独特の姿は、なんとも優美で風流です。まさに当時の貴族文化を体現している建築様式であり、その後に続く「武家造」(ぶけづくり)、「書院造」(しょいんづくり)にも多大な影響を与えました。寝殿造がどのような特徴を持ち、どのような背景で成立したのか、詳しく解説していきます。
寝殿造は平安時代、京都で確立された建築様式です。寝殿造では寝殿が建物の中心に添えられ、その北・東・西に対屋が設けられました。寝殿と対屋は「渡殿」(わたどの)と呼ばれる廊下で繋がれています。寝殿は屋敷の主が過ごす場所であり、対屋など他の建物は家族が使いました。
もともと平安時代中期に成立した寝殿造は、左右対称が理想の形とされましたが、平安時代後期になると徐々に変化。寝殿の片側だけに対屋が設けられるなど、簡易な物になっていきました。また、壁がほとんど設けられない点も寝殿造の特徴。壁の代わりに「御簾」(みす)や「蔀」(しとみ)などの仕切りが設けられ、建物内は風通しが良く、開放的な建造物です。
寝殿造の中心と言える寝殿は、家の主が利用する場所でした。寝殿は母屋と「庇」(ひさし)で構成され、生活空間である母屋は基本的に長方形の形をしています。大きさは横が4~7間、縦が3間。寝殿造は南向きに造られるため、母屋もそれに合わせて東西に横に伸びるように配置されます。
母屋を取り囲うように設置される庇は、現代の縁側のようなイメージの空間。屋根の延長であり、庇をさらに拡張した物を「孫庇」(まごさし)と呼びます。
寝殿の屋根は、「入母屋造」(いりもやづくり)と呼ばれる様式が用いられます。屋根の最上部は左右2方向に勾配がある「切妻造」(きりづまづくり)、屋根の外側は前後左右に勾配がある「寄棟造」(よせむねづくり)となっているのが入母屋造の特徴です。
また、寝殿の外周は、御簾や蔀、「妻戸」(つまど)、「遣戸」(やりど)などの仕切りで外の空間と区切られます。御簾はいわゆる暖簾(のれん)のことで、妻戸は観音開きの扉。蔀は木製の上下開閉式の扉で、一般的に格子状の窓のような形状をしています。遣戸は、寝殿造の周囲に設置される引き戸の総称です。
寝殿から東西に延びる廊下は渡殿と言います。その種類は、梁間が1間の「単廊」(たんろう:柱が両側に1本ずつ)と2間の「複廊」(ふくろう:柱は両側、真ん中の3本)の2つ。
また、両側に壁をもたない廊下を特別に「透渡殿」(すきわたどの)とも言います。そして、寝殿から渡殿を渡っていくと、対屋に繋がるのです。寝殿に対する別棟として機能し、家の主以外の家族がここで生活を送っていました。
対屋が複数設けられることもありましたが、貴族の格によって数は様々。左右どちらかのみに対屋が設けられたり、対屋がなかったりと、多様な形があったと言われます。
東・西・北の3つの対屋をもつ建物もありましたが、そのような豪華な寝殿造は最上位の貴族のみに限られていました。
寝殿の南側に広がる庭を「南庭」(なんてい)と言い、敷地の広さによって様々な大きさで造られました。池が設けられる場合もありますが、多くの寝殿造では庭があるのみにとどまります。また、池がある場合、対屋から南側に廊下が池にせり出すように設けられることがあり、その廊下の先端部分は「釣殿」(つりどの)と呼ばれていました。釣殿は、歌会や雪見などの会場として使われていたと考えられています。
寝殿造の外周は、「築地塀」(ついじべい)と門で形作られます。門には、その格や役割に応じていくつかの種類がありました。最も格式が高いのが「四足門」(よつあしもん)です。門の前後にそれを支える4つの柱が設けられるのが特徴。四足門は、公卿の中でも大臣や親王がもつことができましたが、それ以外の貴族には許されていませんでした。その次に格式が高いのが、四足門から4つの柱を取り除いた形状をしている「棟門」(むねもん)。
その他にも、正門によく使われる「唐門」(からもん)、平らな屋上に土をのせて造る「上土門」(あげつちもん)などの種類もあります。当時の社会階層や役割に応じて、異なるデザインや構造が用いられ、門は屋敷の格式を示す大切な要素になっていました。
平安時代以前の、制度によって社会を統制する律令政治が成立した飛鳥・奈良時代には、貴族の住居は敷地内に正殿や脇殿が整然と並んでいたと言われます。平安時代に入ると藤原氏を中心に、豪族が力を強める一方で、朝廷は次第に戸籍や土地を管理できなくなっていったため、それぞれの地域の有力者に権限を委譲。地方分権が進んだ結果、それまでは都の周辺に集中していた貴族が地方にも登場します。そのような中流貴族が見られるようになったのが、寝殿造が見られ始めた平安時代中期の10世紀ごろです。
平安時代中期から後期にかけて発展した寝殿造でしたが、その後の時代の変遷とともにさらに貴族の住宅が進化します。
地方への国家権限の委譲が進んだ結果、それぞれの貴族や有力百姓は自身の荘園の管理や警護をするための人員を抱えるようになりました。そこから軍事貴族層が形成され、やがて武士団へと発展。1159年(平治元年)の「平治の乱」(へいじのらん)により「平清盛」(たいらのきよもり)が政治を操るようになって以降は、武士が日本の政治において重要な立場を占めるようになります。
そんな社会情勢の中で誕生したのが、「武家造」(ぶけづくり)の様式で建てられた武家屋敷です。住居としての寝殿造を簡素化し、敵からの防衛機能を備えている点が特徴で、室町時代になると書院造、「数寄屋造」(すきやづくり)といった新たなスタイルの建築様式が好まれるようになりました。
代表的な寝殿造の建物は、以下の通りです。
京都御所の紫宸殿は正面9間の母屋をもち、その周囲は蔀と庇で囲われています。母屋のなかには仕切りがほとんどなく、まさに寝殿造の典型とも言える造り。南庭には桜や橘が植えられ、かつては天皇の即位儀式も行われていました。
東三条殿は平安時代摂関を務めていた「藤原兼家」(ふじわらのかねいえ)や「藤原道長」(ふじわらのみちなが)の主邸だった建物。残念ながら現存はしていませんが、千葉県佐倉市にある「国立歴史民俗博物館」にミニチュア模型が展示されています。
一方、10円玉に描かれている「平等院鳳凰堂」(びょうどういんほうおうどう)が寝殿造と言われることもありますが、実際は寝殿造ではありません。寝殿造は南向きに寝殿が設けられるのに対し、平等院鳳凰堂は東に向けて鳳凰が羽を広げるような姿をしています。