安土桃山時代の重要用語

織豊政権 
/ホームメイト

16世紀後半、戦乱の時代を終わらせた「織田信長」と「豊臣秀吉」が担った政権を、ふたりの名前を取って「織豊政権」(しょくほうせいけん)といいます。織豊政権のもとでは、経済や土地政策など様々な分野で新しい仕組みが生み出され、これまでの日本における政治体制が大きく変わりました。日本の一般的な時代区分では、鎌倉幕府の成立以降が「中世」(ちゅうせい)、江戸幕府の成立以降が「近世」(きんせい)とされます。つまり織豊政権とは、中世を終わらせ「中央集権」(権限と財源が中央政府に集中した状態)体制の政治が始まる近世への橋渡しとしての役割を担っていたのです。

安土桃山時代の重要用語

織豊政権 
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16世紀後半、戦乱の時代を終わらせた「織田信長」と「豊臣秀吉」が担った政権を、ふたりの名前を取って「織豊政権」(しょくほうせいけん)といいます。織豊政権のもとでは、経済や土地政策など様々な分野で新しい仕組みが生み出され、これまでの日本における政治体制が大きく変わりました。日本の一般的な時代区分では、鎌倉幕府の成立以降が「中世」(ちゅうせい)、江戸幕府の成立以降が「近世」(きんせい)とされます。つまり織豊政権とは、中世を終わらせ「中央集権」(権限と財源が中央政府に集中した状態)体制の政治が始まる近世への橋渡しとしての役割を担っていたのです。

織田信長の政策

京都の物流を押さえる

織田信長

織田信長

1568年(永禄11年)、織田信長によって15代室町将軍に就いた「足利義昭」(あしかがよしあき)は、お礼として織田信長に幕府の要職を与えようとします。しかし織田信長はそれを断り、代わりに「」(さかい:大阪府)、「大津」(おおつ:滋賀県)、「草津」(くさつ:滋賀県)を自分の直轄地にしたいと申し出ます。

大津と草津は京都と日本海を結ぶ流通の拠点であったうえ、堺は「日明貿易」(にちみんぼうえき:日本と明[みん:当時の中国王朝]との貿易)、及び「南蛮貿易」(なんばんぼうえき:日本とポルトガル・スペインとの貿易)の物流拠点であり、また鉄砲の生産地でもありました。

つまり上記3ヵ所を直轄地とすることで、織田信長は京都の物流を支配すると同時に、鉄砲や火薬が他の大名に流れることを防いだのです。古い常識にとらわれず、実利を重視した織田信長の思想をよく表した政策と言えます。

城下町の経済活性化

安土城跡

安土城跡

1576年(天正4年)、織田信長は自身の拠点として「安土城」(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)を築城します。これは標高約190mの安土山の頂上に、青瓦と朱塗り・金箔押しの柱を持つ天守がある城で、これまで日本では誰も見たことがない絢爛豪華な城でした。

また織田家の家臣は全国に広大な領地を持っていましたが、織田信長は家臣が領地に住むことを許さず、全員を安土城の天守から見下ろせる場所に住まわせました。さらに城の周辺に城下町を整備し、以前の居城であった岐阜から大勢の商人や職人を移り住まわせています。

そして、彼らが市場で商売をしても税金を取らない「楽市」(らくいち)と、商取引を独占する「座」(ざ:同業者組合)を禁じた「楽座」(らくざ)を命じました。他にも「関所」の撤廃によって交通の利便性を高め、安土城下の経済的発展を強力に推進。これは領地の商工業を発展させることで領地の人々の生活を豊かにし、民衆からの支持を集めることが目的であったと言われます。

幣経済の活性化

当時の商取引には、中国から持ち込まれた「永楽銭」(えいらくせん)などの輸入銭が使われていました。しかし国内経済が発展するにつれて、偽造された粗悪な「私鋳銭」(しちゅうせん)が市場に出回るようになります。

そのため、商人は粗悪な悪銭・鐚銭(びたせん)の受け取りを拒否し、良質な貨幣による支払いを要求するようになりました。これを「撰銭」(えりぜに)と言います。

室町幕府や貿易が盛んな地方の大名は、経済発展を阻害するという理由で撰銭を禁止しましたが、効果はありませんでした。そこで織田信長は、悪銭の使用を認める代わりに、貨幣ごとに交換比率を決定。これによって貨幣と金銀の交換比率が決まったという意味で、織田信長の政策は画期的でした。

豊臣秀吉の政策

太閤検地で土地を掌握

豊臣秀吉

豊臣秀吉

織田信長の遺志を継いだ豊臣秀吉は、織田信長の方針を推進した一方で、新しい政策をいくつも打ち出しました。織田信長が商工業重視であったのに対し、豊臣秀吉は農業を重視したことに特徴がありました。

豊臣秀吉の最大の政策が、1582年(天正10年)に始められた「太閤検地」(たいこうけんち)です。

検地とは田畑の面積などを把握して年貢の基準を定めることで、過去の大名も行っています。しかし過去の検地は農民が自己申告する「指出検地」(さしだしけんち)で、正確さに欠けました。

また長さを測る「検地竿」(けんちざお)や米の量を量る桝(ます)も国ごとにバラバラだったのです。豊臣秀吉は検地竿と桝を統一し、さらに役人が実際に田畑に入って測量する「竿入検地」(さおいりけんち)を採用。これにより、年貢の量は正確な田畑の生産量である「石高」(こくだか)から決められるようになりました。

古い土地の権利者を排除

また従来、年貢は「惣村」(そうそん)という共同体がまとめて領主に納めると決められていました。また領主も有力寺院や守護(しゅご:室町幕府から遣わされた地方官)など数多く存在し、土地の権利関係はとても複雑だったのです。

太閤検地では古くからの権利者を排除し、生産者が直接領主(土地を支配する大名)に納めることとしました。これは言い換えれば、豊臣秀吉が全国の土地を支配下に置いたということを意味していたのです。

農民から武器を取り上げる

1588年(天正16年)、豊臣秀吉は「刀狩令」(かたながりれい)を発布。これは「方広寺」(ほうこうじ:京都市東山区)の大仏を建立する材料集めのため、農民から鉄砲などの武器をすべて没収した命令です。

また、農民が武装化することを防止するのも目的のひとつでした。これによって刀を持つことができるのは武士だけになり、武士と農民の身分が明確に分かれることになりました。これを「兵農分離」(へいのうぶんり)といいます。

日本に来た宣教師を追放

16世紀半ばに始まった「南蛮貿易」(なんばんぼうえき:日本とスペイン・ポルトガルとの貿易)により、日本にもキリスト教の宣教師(せんきょうし:バテレンとも)が訪れるようになりました。貿易に積極的であった九州の大名は、貿易での利権を確保するために宣教師の布教を容認。それどころか、積極的にキリスト教に改宗する大名も増えてきました。これをキリシタン大名といいます。

織田信長に続き、最初、豊臣秀吉も経済重視の一環としてキリスト教には寛容な政策を採っていました。しかしキリシタン大名が長崎をキリスト教会に寄付したことを知ると、豊臣秀吉は危機感をつのらせます。そして1587年(天正15年)に外国人の宣教師を国外追放する「バテレン追放令」を発布。

しかし鉄砲や火薬を入手するために貿易は継続されたので、追放令に大きな効果はありませんでした。ところが豊臣秀吉が天下を統一すると、鉄砲の必要性が失われていきます。そして1596年(慶長元年)、豊臣秀吉は京都と大阪で宣教師と信者26名を捕らえ、翌1597年(慶長2年)に処刑してしまいます。これによってキリスト教はますます弾圧されていくことになりました。この方針はのちに江戸幕府にも受け継がれ、1637年(寛永14年)に起こった「島原の乱」ののち、完全にキリスト教は禁止されました。

このように、織田信長・豊臣秀吉の政策によって商工業と農業が発展しただけでなく、全国の大名と土地、財産を政府が管理する体制ができあがりました。つまり、「徳川家康」が幕府を開くより前の織豊政権時代に、江戸時代の経済・庶民生活の基礎は完成していたのです。

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