「正倉院」(しょうそういん)は、「東大寺」(とうだいじ:奈良県奈良市)に隣接した地に建てられた、宝物(ほうもつ)など重要な物品の倉庫。奈良時代前半の建造と推定されます。1,300年近いときが過ぎた現在も、かつての姿を今に伝え、1997年(平成9年)には国宝に、翌1998年(平成10年)にはユネスコの世界遺産「古都奈良の文化財」に指定されました。正倉院の宝物は、45代「聖武天皇」(しょうむてんのう)の御遺愛品(ごいあいひん:生前に愛用した品)を中心とした9,000点以上。宝物内部は非公開ですが、毎年、秋の点検に合わせて奈良国立博物館で展覧されます。
正倉院の大きさは、およそ幅33m・奥行き9.4m・高さ14m。新幹線の車両の長さが25mですから、その約1.3倍の大きさ。これは当時としてはかなり巨大な建物でした。
腐敗しにくい檜(ひのき)の木材を使い、屋根は4方向に傾斜を付けて各面の壁を守る「寄棟」(よせむね)形状、床は地面から浮かせた高床式(たかゆかしき)となっています。
この構造が湿気や害虫を防いだことと、宝物を櫃(ひつ:蓋[ふた]の付いた大きな箱)に入れて大切に保管してきたことで、1,300年以上も劣化から守られたのです。
正倉院はひとつの建物ですが、中は北倉(ほくそう)・中倉(ちゅうそう)・南倉(なんそう)の3室に区切られ、内部はいずれも上下2層(2階建て)。北倉と南倉は、三角柱の木材を井桁(いげた:[井]の字の形)に組んで四方の壁を作る「校倉造り」(あぜくらづくり)となっています。
一方、中倉は溝を掘った柱に板をはめ込んで壁を作る「板倉造り」(いたくらづくり)。どちらも日本古来の優れた工法ですが、両法を組み合わせた建物は希少です。
宝物は、3室それぞれに分類して納められました。北倉には聖武天皇の御遺愛品、中倉には東大寺で用いられた仏具、南倉には東大寺の倉庫で保管されていた物品。
現在では宮内庁によって宝物の整理が行われており、整理中及び整理済みの物は、それぞれ1953年(昭和28年)に建てられた「東宝庫」と1962年(昭和37年)に建てられた「西宝庫」で保管しています。しかしすでに整理を終えた物だけで9,000点と、その数は膨大です。
宝物の種類は、身のまわりの調度品や食器・武器・楽器など実に多彩。東大寺で行われた、大仏の開眼会(かいげんえ:大仏に入魂する儀式)にて用いた仏具も保管されました。
宝物からは、仏教文化と「唐」(7世紀~10世紀初頭に成立した中国王朝)の影響を受けたきらびやかな天平文化が見られ、金工や木工・陶芸・ガラス工芸・七宝焼(しっぽうやき)、染色といった多様で高度な技法と素材の数々が納められています。また、唐やペルシャ(現在のイラン)をはじめとする海外からの輸入品も数多く含まれているのも特徴です。
光明皇后が聖武天皇の御遺愛品を東大寺に奉献した際、目録(もくろく:品物の名称などが書かれたリスト)として、一緒に納められたのが「東大寺献物帳」(とうだいじけんもつちょう)。
「国家珍宝帳」(こっかちんぽうちょう:聖武天皇ゆかりの宝物を記した目録)以下5通から成るこの目録には、宝物の名だけでなく、制作技法や入手先まで詳細に記されています。貴重な史料でもあるこの東大寺献物帳もまた宝物のひとつです。
もうひとつ正倉院の宝物で忘れてはならないのが、「正倉院文書」(しょうそういんもんじょ)と呼ばれる1万数千点もの文書。その多くが、不要となった正税帳(しょうぜいちょう:地方財政の帳簿)や戸籍といった公的な書類の裏面を再利用し、東大寺で写経を行った物です。
写経された文字もさることながら、裏側の正税帳や戸籍の文言から、当時の行政の様子を読み取ることが可能。
また、大量の文書のなかには当時の全国の戸籍が含まれており、そのなかのひとつ、702年(大宝2年)の戸籍は現存する日本最古の戸籍だと言われています。
「鳥毛立女屏風」は、6扇(ろくせん:6枚の面からなる作品)の美人画として名高い屏風です。唐風の衣装を身に着け、樹下に佇む女性を1枚に1人配した構図となっています。
描かれている女性の髪や着衣、樹木などに山鳥の羽毛が貼られていたため、「鳥毛立女屏風」と呼ばれることになりましたが、現在では羽毛のほとんどが剥落(はくらく)し、残っているのは下図の黒い輪郭線のみです。
絵に用いられた羽毛が日本産の山鳥の物であることから、「鳥毛立女屏風」は舶来品ではなく、日本で制作されたと考えられています。
一般的に琵琶の弦は4本ですが、「螺鈿紫檀五絃琵琶」は5本の弦が掛けられているのが特徴です。5弦の琵琶は世界でただひとつ、正倉院にしか残っていません。
本体の素材は、東南アジア産の高級木材である紫檀(したん)。表面(おもてめん)のバチを受ける部分である「撥面」(ばちめん)には、べっ甲(ウミガメの一種・タイマイの甲羅の加工品)が使用されています。
この撥面に施されたラクダの図案や、裏面いっぱいに咲き誇る宝相華(ほうそうげ)の文様は螺鈿(らでん)で表現。螺鈿とは、夜光貝(やこうがい)などの貝殻を加工して、漆地や木地に嵌め込む技法で、宝石のようにつややかな仕上がりとなっています。
奈良時代の8世紀に制作された螺鈿紫檀五絃琵琶は、校倉造りの正倉院に納められていたため、保存状態も良好です。しかし、1,200年近い年月を経て傷んだ部分もあり、明治時代に大掛かりな修理が行われました。
「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」は、裏面に大小18枚の花弁を配した銀製の宝飾鏡(ほうしょくきょう)で、正倉院の宝物唯一の七宝(しっぽう)製品。
花弁の内側に金の薄板で文様の区切りを設け、黄色、緑色、濃緑色の釉薬(ゆうやく)を焼き付けて宝相華文を表現しています。花弁の外側に貼られているのは金板です。
古い時代の七宝製品は極めて希少。黄金瑠璃鈿背十二稜鏡は、ガラス成分が溶けずに残り、不透明になっている部分もあります。これは、ガラス制作の技術がまだ完成されていなかったことを示し、七宝の起源を伝える貴重な資料となっているのです。
黄金瑠璃鈿背十二稜鏡には箱が現存しているとされ、「漆皮八角鏡箱」と呼ばれています。箱は皮を素材として、上から黒漆を塗り、金銀泥(きんぎんでい)で仕上げる製法が用いられました。この製法は奈良時代に盛んに行われましたが、室町時代以降に衰退。明治時代の正倉院宝物修理の際に再度注目されることとなります。
「赤漆文欟木御厨子」は、漆塗の物入れで、高さは102cmです。飛鳥時代に在位した「天武天皇」(てんむてんのう)の遺愛の品であり、天武天皇から歴代天皇をへて聖武天皇へと受け継がれ、その後、「孝謙天皇」(こうけんてんのう)が東大寺へ献納しました。
名称にある「文欟木」とは木目の美しい欅材(けやきざい)のことを指し、蘇芳(すおう:スオウの染料。黒味を帯びた赤色)で染め、透漆(すきうるし:透明度の高い漆)を施して、赤漆仕立てにしています。
正面の扉は、中央から左右に開く観音開き。内部には棚板が2枚あり、3つに仕切られているとのことです。
「国家珍宝帳」には、所有した天皇がそれぞれ身近に置き、自身の宝物を大切に納めていたと記されています。
【正倉院(宮内庁)の公式サイトより】
- 「鳥毛立女屏風(第4扇)」
- 「螺鈿紫檀五弦琵琶」
- 「黄金瑠璃鈿背十二稜鏡」
- 「赤漆文欟木御厨子」