「菅実秀」(すげさねひで)は1830年(文政13年)生まれで、庄内藩(しょうないはん:現在の山形県鶴岡市)に仕え、幕末には薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県鹿児島市)・長州藩(ちょうしゅうはん:現在の山口県山口市)を中心とする、明治政府軍との激戦を指揮しました。戦には敗れたものの、戦後処理で旧庄内藩を存続させた手腕と、故郷の人々を思う気持ちの強さが評価され、明治政府からスカウトされたほど。また、敵将「西郷隆盛」(さいごうたかもり)を師と仰ぎ、西郷隆盛の言葉を現代に伝える「南洲翁遺訓」(なんしゅうおういくん)を著したことでも知られます。
幼少期の菅実秀は、人より強くなることしか考えていない子でしたが、20歳のとき庄内藩主の跡継ぎ「酒井忠恕」(さかいただひろ)の近習(きんじゅ:常に側にいてお世話をする担当)になってから、藩政について深く考えるようになりました。
1863年(文久3年)、33歳になった菅実秀は庄内藩の「郡奉行」(こおりぶぎょう:農民の管理、徴税・訴訟などを扱う役人)に抜擢され、藩政顧問をかねることに。
当時、藩政顧問は400石以上の家柄でないとなれないという決まりがありましたが、150石の菅実秀が抜擢されたのは、菅実秀の実力を見抜いていた中老(ちゅうろう:藩内での重職)の「松平親懐」(まつだいらちかひろ)の推挙があったためでした。
菅実秀が藩政顧問になってすぐ、庄内藩は江戸幕府から江戸の警備を命じられます。
尊王攘夷(そんのうじょうい:天皇を主体とした政権を樹立し、諸外国を排除する思想)の声が日増しに高まるなか、江戸の治安維持は極めて危険な職務。
誰もが辞退を望みましたが、菅実秀ひとりが、徳川家の「譜代」(ふだい:関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えた大名)である庄内藩こそ、江戸を守るべきと主張。松平親懐も賛同し、江戸の警備を受けることになりました。
こうして庄内藩は佐幕(さばく:江戸幕府に味方すること)派の代表としての立場を確立。そして1867年(慶応3年)末、たび重なる薩摩藩の挑発に耐えかねた庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしてしまいます。これがきっかけとなり、1868年(慶応4年)1月、薩摩藩・長州藩を中心とする明治政府軍と江戸幕府軍は全面戦争に突入しました(戊辰戦争)。
明治政府軍は、庄内軍に江戸幕府15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)の追討を命じますが、庄内軍は命令を無視して3月に庄内へ戻ってしまいます。
明治政府軍はすぐに「奥羽鎮撫総督府」(おおうちんぶそうとくふ)を置き、仙台藩(せんだいはん:現在の宮城県仙台市)など、江戸幕府に味方する諸藩への攻撃を開始。一方、庄内藩では菅実秀が戦いを指揮して、明治政府軍をさんざん苦しめましたが、1868年(明治元年)9月16日、庄内藩は明治政府軍に降伏。
過去に薩摩藩邸を焼かれた恨みから、明治政府軍の中でも特に薩摩藩は庄内藩の降伏を認めず、殲滅すべきと主張する者が多かったのです。しかし、明治政府軍の実力者・西郷隆盛の指示で庄内藩の降伏は受け入れられ、殲滅だけは免れました。
その後、明治政府軍は庄内藩に会津藩(あいづはん:現在の福島県会津若松市)への国替え(くにがえ:別の領地に移ること)を命じます。これは数字の上では170,000石から120,000石への減封(げんぽう:所領の削減)でしたが、会津藩にそこまでの石高はなく、実質的に4分の1になるという大幅な削減だったのです。
これでは藩が立ち行かないと考えた菅実秀は、明治政府への陳情に奔走。誰もが敗軍の嘆願など聞いてくれるはずがないと思い、むしろ菅実秀の命を心配したほど。
1年半の粘り強い交渉の末、700,000両の献金と引き換えに国替えの中止を勝ち取ります。しかも、そののち400,000両を献金したとき、残りの300,000両は免除されたのでした。
1870年(明治3年)、菅実秀は1,000石を与えられ、庄内藩から名を変えた「大泉藩」(おおいずみはん、のちに大泉県・酒田県・鶴岡県を経て山形県へ)の「権大参事」(ごんだいさんじ:現在の副知事に相当)に就任。150石の中級武士から、わずか7年で1,000石になっているのです。
この異例の大出世は、敗戦後も命がけで国替え反対を訴え続けた交渉力への評価でした。明治政府も菅実秀を高く評価し、国政に参加するよう打診しましたが、菅実秀が拒否しています。
1871年(明治4年)、菅実秀は初めて西郷隆盛と会い、意気投合します。菅実秀は西郷隆盛を「先生」と呼び、西郷隆盛から聞いた言葉のひとつひとつをすべて胸に刻み込みました。
のちに菅実秀が著したとされる「南洲翁遺訓」は、政治家・西郷隆盛と人間・西郷隆盛の思想哲学を余すところなく伝える資料として今に伝えられています。
また、西郷隆盛も菅実秀を高く評価し、日頃から「東北に菅実秀という大人物がいる」と周囲に語っていたほど。さらに、西郷隆盛が自ら書いた詩の中で先生と呼んだのは、勤王の士として知られる「高山彦九郎」(たかやまひこくろう)と菅実秀だけだったと言われます。
菅実秀は、旧庄内藩内の森林に「松ヶ丘開墾場」(まつがおかかいこんじょう)を設けました。これは明治政府が進める藩兵解体(はんぺいかいたい:藩が持つ軍の解体)によって職を解かれた、約3,000名の旧庄内藩士達へ仕事を与えるために設けられた施設。
ここで、旧庄内藩士達が森を開墾して養蚕(ようさん)を行えば、旧庄内藩士達も困らなくて済むし、県の財政も潤う。まさに一石二鳥の、この事業のことを聞いた西郷隆盛は膝を打って賛成し、全力で応援しました。西郷隆盛自身、全国で2,500,000人もいた旧武士層の処遇に困っていたこともあり、菅実秀の発想は大いに参考になったと考えられます。
1877年(明治10年)、西郷隆盛が鹿児島県(旧薩摩藩)で、旧薩摩藩士達とともに挙兵したという知らせが届きます。「西南戦争」(せいなんせんそう)の始まりです。
明治政府軍は鹿児島県と旧庄内藩が近しいことを知っており、旧庄内藩の軍が鹿児島県に応じて挙兵したときのために鎮圧軍を派遣。実際、菅実秀に挙兵を迫る旧庄内藩士は多かったのですが、菅実秀は慌てず「もし西郷先生が本気で立ち上がったのならば、私に使いを出していたはず。それがないのは本気ではない証拠だ」と、最後まで軍を動かそうとしませんでした。
その後、菅実秀は公職を去り、1878年(明治11年)、現在の「荘内銀行」の前身「第六十七国立銀行」の設立にかかわり、庄内の経済・農業の発展に力を尽くしました。当時、菅実秀が常に口にしていた「銀行は顧客のおかげで商売ができている。だから取引金額で対応に差を付けてはいけない」という言葉は、今も荘内銀行の理念として受け継がれています。
また、1893年(明治26年)には独自の空調管理の仕組みを備えた「山居倉庫」(さんきょそうこ:山形県酒田市)を建設し、庄内米の流通にも寄与。こうして幕末から明治時代初期にかけて庄内の危機を救った菅実秀は、1903年(明治36年)に76歳の生涯を終えました。