江戸時代の重要用語

杉田玄白 
/ホームメイト

江戸時代中期、医者であり蘭学者(らんがくしゃ:オランダ伝来の西洋学問を研究する学者)でもあった「杉田玄白」(すぎたげんぱく)は、医師仲間とともにオランダ語で書かれた人体解剖書「ターヘル・アナトミア」の翻訳を成功させました。当時、日本の医者は患者の様子を外から見て診断し、薬を処方するだけでしたが、杉田玄白は体内の仕組みも知らず診断することに、大きな疑問を感じていたのです。「ターヘル・アナトミア」は「解体新書」(かいたいしんしょ)の名で発行され、大きな評判を呼びます。それは、日本の近代医学の扉を開く1歩となりました。

江戸時代の重要用語

杉田玄白 
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江戸時代中期、医者であり蘭学者(らんがくしゃ:オランダ伝来の西洋学問を研究する学者)でもあった「杉田玄白」(すぎたげんぱく)は、医師仲間とともにオランダ語で書かれた人体解剖書「ターヘル・アナトミア」の翻訳を成功させました。当時、日本の医者は患者の様子を外から見て診断し、薬を処方するだけでしたが、杉田玄白は体内の仕組みも知らず診断することに、大きな疑問を感じていたのです。「ターヘル・アナトミア」は「解体新書」(かいたいしんしょ)の名で発行され、大きな評判を呼びます。それは、日本の近代医学の扉を開く1歩となりました。

杉田玄白の生涯

父と同じ医師の道へ

杉田玄白

杉田玄白

1733年(享保18年)、杉田玄白は江戸で誕生。

父の「杉田甫仙」(すぎたほせん)は、若狭国(わかさのくに:現在の福井県西部)にあった小浜藩(おばまはん:現在の福井県小浜市)の藩主・酒井家の主治医を務めており、江戸の下屋敷に住まいを与えられていました。

父の跡を継いで医者になろうと決めた杉田玄白は、17歳頃から江戸幕府将軍お抱えの名医「西玄哲」(にしげんてつ)のもとで、医学を学び始めます。

当時の日本では中国から伝わった漢方医学が主流でしたが、先進的な考えを持つ人々は、西洋医学に関心を寄せていたのです。西玄哲は西洋医学の中でも、蘭方医(らんぽうい:オランダ商館を通じて西洋医学を学んだ外科医)のリーダー的存在でした。

人体への興味が募る

杉田玄白が21歳のとき、京都の医師「山脇東洋」(やまわきとうよう)が、日本の医学史上初めて死体を「腑分け」(ふわけ:解剖のこと)し、解剖図誌「蔵志」(ぞうし)を著しました。これを見た杉田玄白は、いつか自分の目で腑分けを見学したいと強く願うようになります。

25歳になった杉田玄白は、江戸の日本橋で町医者として独立。当時の江戸と言えば、人口約1,000,000人に達する世界有数の大都市。様々な人物や文化が集まる中で、杉田玄白は多くの人と交流を重ね、幅広い知識を吸収していきました。

発明家「平賀源内」(ひらがげんない)と親しく付き合うようになったのもこの頃です。平賀源内は、本草学(ほんぞうがく:動植物・鉱物などを研究する学問)をはじめとする蘭学を学んでいたため、杉田玄白とはとても話が合ったと言われます。

ターヘル・アナトミアとの出会い

杉田玄白は死去した父の跡を継いで、37歳で小浜藩主の主治医となりました。39歳のとき、大きな転機が訪れます。同じ小浜藩の医師で後輩の「中川寿庵」(なかがわじゅあん)が、オランダ語の医学書を携えて杉田玄白宅を訪問。

その本こそ、のちの「解体新書」のもととなる「ターヘル・アナトミア」でした。これは、ドイツ人医師「クルムス」が著した解剖学の書物をオランダ語に訳した物で、このとき中川寿庵は江戸に滞在中のオランダ商人から借りてきたのです。

書かれている文字はまったく読めませんでしたが、杉田玄白は内臓・骨格が詳しく描かれていることに衝撃を受けます。この書物が欲しくなったものの、高価で手が出ません。そこで杉田玄白は小浜藩の家老(かろう:藩の重職)に頼み込み、小浜藩に購入代金を出してもらってようやく入手しました。

初めて腑分けに立ち会う

ターヘル・アナトミアを手に入れた杉田玄白は、そこに描かれている図が正しいのか、実物を見て確かめたくなりました。そんなある日、江戸町奉行(えどまちぶぎょう:江戸の行政・司法を担当する役職)から、処刑された死体の腑分けを見学に来ても良いという知らせが入ります。喜んだ杉田玄白は、医師仲間の中川寿庵、「前野良沢」(まえのりょうたく)を誘って見学。

このとき、ターヘル・アナトミアの図と比べながら見学していた杉田玄白らは、心臓・肺・肝臓といった臓器の形や位置が、ターヘル・アナトミアの図と寸分の狂いもないことに再び衝撃を受けました。

4年がかりで翻訳

杉田玄白らは日本の医学を発展させるため、自力でターヘル・アナトミアを翻訳しようと決意。しかしオランダ語を学んだ経験があるのは前野良沢だけで、それもわずかな単語を知っている程度。杉田玄白に至ってはアルファベットすら知りません。

ごく簡単なオランダ語の辞書だけを頼りに、外国の医学専門書を翻訳するのですから、作業は困難を極めました。最初は、1行訳すのに1日がかり。

さらに杉田玄白は、1度書き上げた原稿を何度も見直しては修正したとされます。完成したときには、開始から4年の歳月が流れていました。

こうした苦労の末、1774年(安永3年)に出版された「解体新書」がきっかけとなり、蘭学に対する社会の関心がいっそう高まり、杉田玄白の学問を多くの弟子達が引き継いでいきます。そして1817年(文化14年)、杉田玄白は84歳でこの世を去りました。

杉田玄白の事績

解体新書

解体新書には、著者として杉田玄白・中川寿庵・「石川玄常」(いしかわげんじょう)・「桂川甫周」(かつらがわほしゅう)の4人の名が記されていますが、翻訳の主導的役割を果たした前野良沢の名前がありません。というのも、前野良沢はまだ翻訳が完璧でないことを理由に、自分の名前を載せるのを断ったのです。

解体新書は解剖図1冊と、漢文で書かれた本文4冊の構成。重要な役割を担ったのが、筋肉・骨・内臓などを正確に模写した、41ページに及ぶ解剖図。これを手がけたのは久保田藩(くぼたはん:現在の秋田県秋田市)に仕える画家「小田野直武」(おだのなおたけ)で、平賀源内から西洋画を学んだ人物でした。

蘭学事始

1815年(文化12年)、ターヘル・アナトミアを翻訳する際の苦心談を通して、蘭学の始まりから現在の繁栄までを、杉田玄白が回想録として出版した書が「蘭学事始」(らんがくことはじめ)。

このとき、杉田玄白は82歳。翻訳で苦労をともにした仲間達はすでに世を去り、それまでのことを描き残すのは自分の役目だと考えていました。翻訳に取りかかり始めた頃の様子を、「艪も舵もない船で、大海に漕ぎ出すようなもの」と振り返っています。

杉田玄白の逸話

福沢諭吉が感動

幕末から明治維新期の日本で、欧米の近代文化に最も通じた知識人の1人であった「福沢諭吉」(ふくざわゆきち)は、「安政の大地震」(あんせいのだいじしん:1850年代の安政年間に日本各地で頻発した大地震)で消失していた、蘭学事始を再出版。

福沢諭吉は、本の序文に「ターヘル・アナトミアの翻訳に取りかかった頃の苦労を想像すると、杉田玄白達の勇気と真面目さに心が打たれ、涙があふれた」とまで書きつづっています。

医学用語を発案

現在、誰もが普通に使っている「神経」・「盲腸」・「軟骨」・「動脈」などの言葉は、杉田玄白らがターヘル・アナトミアを翻訳する際、苦心して考え出した医学用語でした。当時の日本の医学では、軟骨・神経はその存在すら知られていなかったのです。

こうした苦労の末に誕生した「解体新書」ですが、実は日本語への翻訳が難しいと判断した単語はオランダ語のまま使われており、誤訳のまま掲載されている言葉も少なくありませんでした。それでも、杉田玄白らの無謀とも言えるチャレンジ精神は、現代の私達にも大きな勇気を与えてくれます。

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