「朱印船」(しゅいんせん)とは、江戸幕府将軍より「朱印状」(しゅいんじょう:海外渡航許可証)を与えられた貿易船のこと。江戸幕府による管理のもと東南アジアまで渡航し、各国と直接貿易を行い大きな利益を上げるとともに、東南アジア諸国に「日本町」(にほんまち)を形成しました。朱印船は、日本に莫大な経済的発展をもたらしましたが、一方で国内のキリスト教信者数が増加。危機感を抱いた江戸幕府はキリスト教を禁止し、さらに日本人の海外渡航も禁止します。こうして江戸幕府の方針が「鎖国」(さこく:他国との交流を極端に制限する政策)へと大きく舵を切るなかで、朱印船も廃止されてしまいました。
徳川家康が初めて朱印状を発行したのは、江戸幕府樹立の翌年1604年(慶長9年)のこと。出発地と行き先、日付などが記載され、江戸幕府将軍の大きな印が朱色で押されていたことから朱印状と呼ばれました。江戸幕府の下で朱印船による貿易が行われた、およそ30年の間に、360通余りの朱印状が発行されたと言われています。
代表的な船主は、長崎代官「末次平蔵」(すえつぐへいぞう)、大坂商人「末吉孫左衛門」(すえよしまござえもん)、京都商人「角倉了以」(すみのくらりょうい)、「茶屋四郎次郎」(ちゃやしろうじろう)などです。
また島津氏や有馬氏、松浦氏といった九州の有力大名も名を連ねていました。朱印状は航海するたびに各船に1通ずつ必要で、帰国時に江戸幕府へ返却する決まりでした。
もちろん他の人に貸したり譲ったりすることは許されません。朱印状を入手した船主は、商品を購入するための銀や輸出品を揃え、船長、船員を雇って船を仕立てます。
船の大きさは、50人乗りの小型船から300人を超える大型船まで多種多様。茶屋四郎次郎の朱印船は長さ45m、幅8mもあったと言われます。造船技術、東南アジアまで遠征するために必要な最新の航海術などは、ヨーロッパ人からもたらされたものでした。
朱印船の渡航先は、現在のフィリピン・ベトナム・タイ・カンボジアなどの東南アジア地域が中心で、中国産の生糸・絹織物・綿織物・砂糖・香木・薬草などを輸入し、銀や銅・銅銭・鉄・屏風(びょうぶ)・扇子などが日本から輸出されていました。
ヨーロッパ諸国とも東南アジア経由で盛んに取引が行われ、やがて各地に日本町と呼ばれる、日本人移住者達の集落を形成。当時、数百から数千人が商人として暮らしていました。
なかでも有名な人物が、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部、北東部)出身の「山田長政」(やまだながまさ)。1612年(慶長17年)頃に朱印船でタイへ渡った山田長政は、そこで日本町の頭領になりました。
のちにタイの中部地域を支配していた、アユタヤ国王「ソンタム」に気に入られ、側近に取り立てられます。しかし、国王が亡くなると後継者争いに巻き込まれ、山田長政は毒殺されてしまいました。
当初、貿易による利益を優先し、キリスト教布教を黙認してきた徳川家康でしたが、増え続けるキリスト教信者に次第に危機感を持つようになります。そのため、1612年(慶長17年)には「禁教令」(きんきょうれい:キリスト教の布教と信仰を禁じる法律)を出し、1616年(元和2年)には、江戸幕府第2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が、朱印状の発行制限を開始します。
そのあとも、キリスト教への弾圧と外国船の制限を徐々に強化。1631年(寛永8年)に、「奉書船制度」(ほうしょせんせいど)が開始されます。奉書船とは老中(ろうじゅう:江戸幕府の重職)が発行する奉書を携帯した貿易船のことで、以降、海外渡航には朱印状と奉書の両方が必要となり、朱印船貿易の規制はますます強化されました。
そして1635年(寛永12年)に日本人の海外渡航が全面禁止になると、朱印船貿易も廃止。江戸幕府の鎖国政策が完成するのは、6年後の1641年(寛永18年)のことでした。