鎌倉幕府が滅んだのち、日本では激しい戦乱が続きます。この混乱の時代のなか、様々な歴史書や軍記物語(ぐんきものがたり:戦を題材に、実在の武士の活躍を描いた物語)が作られました。なかでも特に壮大なスケールで、96代「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の倒幕計画から、室町幕府3代将軍「足利義満」が登場するまでの約50年間の動乱を描いた作品が、「太平記」(たいへいき)です。同じく、軍記物語の傑作として知られる「平家物語」(へいけものがたり)を琵琶法師(びわほうし)が語り継いだように、太平記も「太平記読み」(太平記に節を付けて読む講釈師)によって人々に広まっていきました。
全40巻の太平記は、以下の三部から成り立っています。
「建武の新政」(けんむのしんせい:後醍醐天皇が自ら政治を行った体制)とその失敗から足利尊氏の離反、足利尊氏の勢力回復と北朝の擁立。そして楠木正成の敗死、後醍醐天皇の南朝樹立、新田義貞の敗死、後醍醐天皇の崩御(ほうぎょ:天皇が亡くなること)までを描いています。
現世(げんせい:今、我々が生きている世界)で良い行いをすれば良い報いを受け、悪いことをすれば仏罰(ぶつばつ:仏様に与えられる罰)を受けるという、仏教の「因果応報」(いんがおうほう)が第二部のテーマです。
足利尊氏と弟・「足利直義」(あしかがただよし)の対立など、北朝内部の抗争。それに乗じた南朝勢力との闘い、室町幕府2代将軍「足利義詮」(あしかがよしあきら)の死、「細川頼之」(ほそかわよりゆき)に支持された「足利義満」(あしかがよしみつ:のちの3代将軍)の登場までを描いています。
ここでは、第二部で亡くなった後醍醐天皇が怨霊となって、この世に害をもたらすという世界が描写されており、第三部も第二部と同様に、仏教的な因果論がテーマになっていると考えられています。
時代を経て書写が繰り返されてきた太平記には、多くの異本(いほん:内容違い)が作られました。流布本(るふぼん:最も広く普及している本)とされる「岩波日本古典文学大系」を底本(ていほん:原本)にした太平記には、他の異本にはない22巻が存在します。
より古い時代に成立した、古態本(こたいぼん)には22巻がないことから、流布本に見られる22巻は、21巻と23巻をもとにして制作したという説が有力です。
南北朝時代の武将・文化人でもあった「今川了俊」(いまがわりょうしゅん)が、1402年(応永9年)に記した「難太平記」(なんたいへいき)には、太平記の作成に関する記載があります。
これによれば、「法勝寺」(ほっしょうじ:京都府京都市)の「恵鎮上人」(えちんしょうにん)が太平記30余巻を作成して足利直義に見せたところ、欠点・誤りが多かったため、公表が止められたというのです。
これを見る限り、太平記の原稿は恵鎮上人が作成し、足利直義など室町幕府の中枢の人間が、校閲を行って作られたことが分かります。また太平記の最終巻には、恵鎮上人・足利直義の死が記載されており、両名の死後も多くの人がかかわって制作されました。
他にも、当時の貴族「洞院公定」(とういんきんさだ)が記した日記「公定公記」(きんさだこうき)には、「小島法師」(こじまほうし)をはじめとする戦乱の敗残者・遁世者(とんせいしゃ:世捨て人)がかかわったことが記されています。太平記は、このように高い教養を持った多くの人々が参加し、1370年(建徳元年/応安3年)頃に完成しました。
太平記の主な登場人物と、その活躍を紹介します。
後醍醐天皇は、太平記を語るうえで欠かせない人物。第一・二部の中心人物として描かれ、第三部では怨霊として登場します。
2度の倒幕計画に失敗したあと、隠岐(現在の島根県隠岐郡)に流されても挙兵し、楠木正成ら同志を集めて倒幕を実行。建武の新政に失敗したのちは、吉野(現在の奈良県吉野町郡)で南朝を興し、室町幕府と北朝に対抗しました。
前述のように死後も怨霊となって登場するなど、まさに太平記全体の主人公的存在と言えます。後世の「皇国史観」(こうこくしかん:日本は万世一系の天皇が統治する国であるという考え方)につながる「水戸学」(みとがく:江戸時代の水戸藩で成立した学問)では、後醍醐天皇こそ正統であると主張したため、明治~昭和時代初期には、太平記の研究がされることはありませんでした。
楠木正成は冷静な判断力と知恵で、圧倒的な勢力を持つ鎌倉幕府軍を倒し、後醍醐天皇を勝利に導いた人物として描かれます。
ともに戦って死のうとする息子・「楠木正行」(くすのきまさつら)を諭し、生き残って後醍醐天皇を助けよと命じた「桜井の別れ」(16巻)は太平記屈指の名シーンのひとつ。ただし楠木正成に関する文献史料は極めて少なく、実際の人物像についてはよく分かっていません。
足利尊氏は、もとは執権・北条高時から一字をもらって「足利高氏」と名乗っていましたが、後醍醐天皇の諱(いみな:本名)の「尊治」をもらい「尊氏」へ改名。
当初は鎌倉幕府に仕える14名の将軍のひとりとして後醍醐軍と戦いましたが、のちに寝返って鎌倉幕府を滅亡させました。しかし、1335年(建武2年)に征夷大将軍への就任を拒否されたことが原因で後醍醐天皇に対してやむなく挙兵。
これによって長く日本では「逆賊」(ぎゃくぞく:主君に反逆した極悪人)とされ、第二次大戦前の1934年(昭和9年)には、足利尊氏に肯定的な発言をした当時の大臣が、辞職に追い込まれたほどでした。近代においても、それほど太平記の影響は大きかったのです。
新田義貞は、鎌倉幕府を築いた「源頼朝」(みなもとのよりとも)、足利尊氏と同じ清和源氏(せいわげんじ:56代清和天皇[せいわてんのう]の孫・経基王[つねもとおう]を祖とする源氏一族)の出身です。
最初は鎌倉幕府が遣わした、楠木正成追討軍の一員でしたが、「護良親王」(もりよししんのう:後醍醐天皇の皇子)の命に従って倒幕軍に参加。
鎌倉に攻め込むルートをすべて閉鎖された新田義貞が、「稲村ヶ崎」(いなむらがさき:神奈川県鎌倉市)で太刀を海に沈めると潮が引き、兵馬が通れる道ができた逸話(10巻)は、太平記でも有名な場面のひとつです。
細川頼之は、もとは四国を治めていたが、優れた政治手腕を見込まれて「管領」(かんれい:将軍を補佐する重職)として室町幕府に迎えられ、10歳の足利義満を支えながら政治を行いました。
また細川頼之自身も太平記の編纂にかかわったとされ、太平記の最後は、「外相内徳げにも人の云に不違しかば、氏族も是を重んじ、外様も彼命を不背して、中夏無為の代に成て、目出かりし事共也」([細川頼之の]表に現れる政治手腕も、内に備えた人徳も人々の評判通りであり、足利氏もその意見を尊重し、それ以外の人々も命令に背くことはなかった。こうして今や日本は平和な時代を迎え、誠に喜ばしい限りである)という一文でしめくくられています。