「検地」(けんち)とは、戦国時代の領主が領地の実情を把握するために行った調査のこと。「織田信長」など多くの戦国大名が検地を行っていますが、特に「豊臣秀吉」が全国規模で行った検地を「太閤検地」(たいこうけんち)、または行われた元号から「天正の石直し」(てんしょうのこくなおし)と呼びます。ちなみに「太閤」とは、「関白」(かんぱく:成人天皇の補佐をする役職)を子に譲ったのちの尊称。1582年(天正10年)に始まった太閤検地は、豊臣秀吉が没する1598年(慶長3年)まで162回にわたって実施されました。太閤検地では、測量の基準と年貢の換算方法が全国で統一されたことに加え、土地の所有者と年貢を納める責任者が豊臣秀吉の指示で決められました。これは、豊臣秀吉が全国の土地の支配者になったということを意味していたのです。
太閤検地以前の大名が実施した検地は、土地の管理者である家臣や寺社・村などに農耕地の面積・年貢の量を調べさせ、耕作者の氏名とともに報告させるというスタイルでした。
こうした自己申告による検地を「指出検地」(さしだしけんち)と言います。このとき、報告者は少しでも年貢を少なくするため、実際よりも面積を過少申告することは日常茶飯事でした。
太閤検地では、役人が「検地竿」(けんちざお)と呼ばれる用具を使って正確な数値を実測。これを「竿入検地」(さおいりけんち)と言います。
ところで従来も検地竿は使われていましたが、地方によって長さの単位はバラバラでした。そこで豊臣秀吉は検地竿を統一。1間(けん)を約191cmと決め、1間四方を1歩(ぶ)、20歩を1畝(び)、10畝を1反(たん)、10反を1町(ちょう)と呼び、これに基づいて田畑や屋敷の面積が定められました。
1594年(文禄3年)に、太閤検地が行われた島津家(しまづけ)で用いられた検地竿が何本も現存していますが、どれもほとんど誤差がなく、当時の基準が極めて厳密であったことを示しています。
測量された田畑は上・中・下・下々(げげ)などの等級に分けられ、等級ごとに米の予定収穫量が決められました。これを「石盛」(こくもり)と言います。
また太閤検地では収穫量を量る枡(ます)も京枡(きょうます)に統一され、これを基準にして石(こく)・斗(と)・升(しょう)・勺(しゃく)・才(さい)などの容積単位が決められました。
そして石盛に面積をかけたものを「石高」(こくだか)と言い、そのうち3分の2を年貢として納めることが決められました。税率にすれば66.7%の高税率です。このように、米の量を基準とする制度を「石高制」(こくだかせい)と言います。
従来、年貢は「貫高制」(かんだかせい)で決められていました。貫高制とは、土地で収穫できる米の量を通貨に換算したものですが、当時の日本では貨幣の流通量が十分ではなく、また地方ごとに貨幣価値も異なっていたのです。
また石高は農民が納める年貢量の基準であるとともに、武士が主君(大名)に提供する軍事的負担(軍役)の量を定める基準にもなりました。つまり、石高制とは当時の社会・経済活動の基盤でもあったのです。
豊臣秀吉が石高制を採用した理由は、前述のように貫高制が基準になりづらかったことに加え、当時は米が貨幣と同じくらい重要であったこと、さらに豊臣秀吉が天下統一に続いて明(みん:当時の中国王朝)への侵攻を考えていたため、兵糧として、米の重要性が高まっていたという事情もありました。
もうひとつ、太閤検地による大きな成果は、土地の所有関係が明確になったことでした。室町時代前期、全国の土地はすべて幕府の支配下にあったわけではなく、貴族や有力寺院の私有地である「荘園」(しょうえん)が数多く存在していたのです。
幕府から派遣された地方官である「守護」は、荘園の年貢を半分だけ徴収できる「半済」(はんぜい)の権利を室町幕府から獲得し、荘園への影響力を強めていきました。一方、荘園も守護の立ち入りを禁ずる「不入権」(ふにゅうけん)を得て対抗。
室町時代後期になると、上記に加えて「国衆」(くにしゅう:その地域に住む有力氏族のこと)の領地が全国に点在し、とても複雑な状況でした。豊臣秀吉が全国統一した頃、地方の土地は所有者が誰で誰が年貢を徴収するかが極めて曖昧だったのです。
太閤検地では、土地の所有者と直接田畑を耕作する者(農民)をはっきりさせ、検地帳に登録。これによって守護や荘園といった中世の複雑な枠組みが解消され、「領主と農民」という単純な関係に整理されたのです。こうして平安時代から始まる、複雑に絡み合った中世の土地所有が一本化され、その頂点に立つ豊臣秀吉が全国の土地の支配者になったのです。
太閤検地によって、世の中は大きく変わりました。なかでも最大の変化は、統一された検地竿と京枡によって正確な面積と正確な年貢量が判明し、指出検地によって過少申告されていた石高の正確な量を把握できたことでした。
1594年(文禄3年)、薩摩・大隅(さつま・おおすみ:鹿児島県)で行われた太閤検地では、30万石に及ぶ石高の増加があったと記録されています。また正確な石高が判明したことで、同じ石高の土地は同じ価値を持つと考えられるようになりました。
そのため、「先祖代々の土地は命をかけて守らなくてはならない」という鎌倉武士から続く過去の価値観とは関係なく、家臣の「国替え」(くにがえ:領地を取り上げ、別の領地を与えること)を容易に行えるようになりました。
例えば1590年(天正18年)、小田原攻めで北条氏(ほうじょうし)を攻め滅ぼしたあと、「徳川家康」(とくがわいえやす)は豊臣秀吉から国替えを命じられています。それ以前、徳川家康は三河(みかわ:現在の愛知県東部)、遠江・駿河(とおとうみ・するが:現在の静岡県)、信濃(しなの:現在の長野県)、甲斐(かい:現在の山梨県)の5ヵ国、150万石の大名でした。
そんな徳川家康が国替えを命じられた土地が、北条氏が持っていた関東8ヵ国、250万石。形の上では100万石もの加増であるため、徳川家康への恩賞です。しかしこれは、京都から徳川家康を遠ざけ、辺鄙(へんぴ)な関東地方に閉じ込めてしまおうという豊臣秀吉の戦略でした。豊臣秀吉は、まさに太閤検地によって全国の土地と人民までを掌握したのです。